平櫛田中「実践、実践、また実践。挑戦、挑戦、また挑戦。修練、修練

実践、実践、また実践。挑戦、挑戦、また挑戦。修練、修練、また修練。やってやれないことはない。やらずにできるわけがない。今やらずしていつできる。やってやってやり通せ

前から行きたかった小平市平櫛田中彫刻美術館を訪ねた。一橋大学の近くで玉川上水の流れる閑静な住宅街に、2階建て地下1階のモダンな展示館と、自宅だった和風平屋の記念館が併設されている。平櫛田中(1872−1979年)という名前は、田中という本来の姓を養子に行った平櫛という姓の下につける名前にしたという事情である。

明治8年(1875年)の神仏分離に伴い、従来神社に混淆されていた仏寺はことごとく分離され、仏教はいちじるしく衰退した。また仏教美術も破棄される運命となり、仏像の需要が減退し、仏像を彫る仏師の仕事も衰退した。それは木彫の衰退を意味した。多くの木彫家は象牙彫に転じたが、高村光雲のみは、木彫をまもった。その光雲は東京美術学校の教授になり後進を指導する。光雲の弟子の一人が平櫛田中である。

この名前は最近の日経新聞の連載でもみたし、さまざまなところで目にしている。すぐれた木彫彫刻家として有名だが、107歳という長寿を全うしたことでもよく話題になる。1872年(明治5年)生まれで、没年は1979年(昭和54年)。この田中(でんちゅう)さんは、「六十、七十、洟垂れ小僧 男盛りは百から百から」というよく聞く言葉を語った人物でもあった。
年表によると、72歳で東京美術学校の教授になり、77歳で東京芸術大学の教授。そして93歳で名誉教授、という不思議な肩書と年齢の関係がみえる。70を超えて母校の教授になり、90歳で文化勲章をもらったこともあり、その3年後に名誉教授に推薦されている。
残っている映像で100歳を超えた日常が紹介されていた。彫刻の題材を探すためもあって、ハサミを片手に新聞を切り抜く姿があった。とにかく興味が多岐にわたり、好奇心とバイタリティに溢れた人だったらしいことがわかる。家族の証言によると、早起きで午前2時には起きて、本や新聞を読み、6時から着物を着て洗面、朝食。その後庭での30分間の散歩。午前中は居間で本を読み、手紙を書く。午後は書道。就寝は午後9時、という充実した日常だった。

「田中語録」というような本も編まれているように、この人の言葉はなかなかよかったらしい。

「いま
 やらねば
 いつ
 できる

 わしが
 やらねば
 たれが
 やる」

というやる気が出てくるような心構えの書も観ることができる。

 平櫛田中の代表作として有名なのは、現在国立劇場のロビーに展示されている「鏡獅子」である。鏡獅子は歌舞伎舞踊「春興鏡獅子」の略称。正月の鏡開きの余興に手獅子を持って腰元が踊ると、その獅子の精にひかれて花道へ引っ込む。そして後段、能衣装に歌舞伎式隈取りの顔で獅子が花道から出る、という趣向の新歌舞伎18番の一つ。
 全長2メートルを超える作品で、完成までに援助者の事情や戦争などもあり結果的に20年以上の歳月を費やしている。六代目尾上菊五郎の絢爛豪華な舞の姿を木彫りで彫り、その上に色彩をかけたもので、日本彫刻の最高峰と言われる作品である。昭和12年には25日間通い続け、場所を変えながら六代目菊五郎の姿を観察し続けたというエピソードも残っている。
 菊五郎は「踊りの名人の眼だ」と田中の観察眼を評していた。菊五郎は裸で稽古をしたのだが、まずその姿を彫り、その上に衣装を着けるといった凝った方法でつくっていった。この寄木細工の作品は80歳を超えてやっと完成する。このとき菊五郎はすでに他界していた。
「形は小さいながら堂々として居る。随分細かい点まで気を配りながら、ちっとも小さな感じにならない所は流石である。衣装の要所要所が十分に引緊って居て気落ちがいい、緩急共に衣装が生きている。殊に突張った袖口の緊張や袴腰の据りのたしかさに感心した」(朝日新聞・児島喜久教授)。
 政府から2億円で譲ってくれと言われたが、それではあの世で菊五郎に合わせる顔がないからといって、永久貸与という寄付にした。現在の価値で60億円だと、学芸員の藤井さんが教えてくれた。昭和33年の院展に出品されたその作品は今は国立劇場のロビーで多くの人に感動を与えている。
田中は、文化勲章をいただけるなら、「鏡獅子を作ったときに頂戴出来たら一番うれしかったのだが、、」と述懐している。文化勲章伝達式では、天皇陛下から「一番苦心されたことは」と聞かれ、「それは、おまんまを食べることでした」と答えて話題になった。

田中の彫刻の方法は、粘土で作った形を石膏でかたどりし、特別の「星取り機」というコンパスで木にうつしとるという工法で、星取り技法と呼ばれた。日本の伝統木彫り彫刻の中に西洋流のやり方を取り入れた手法である。
代表作のひとつ「尋牛」(じんぎゅう)は、山の中に牛をたずね求めていく十牛図の故事からとった作品で、岡倉天心から絶賛された田中の出世作である。  
日本彫刻会の会長となった天心は田中の心の師となった。ブロンズの「岡倉天心胸像」には尊敬の念を込めて金箔を塗っている。天心の口癖は「芸術は理想の表現である」だった。
彩色豊かな「源頼朝像」、そして「良寛和尚」、「月琴」(陶淵明)、「聖徳太子像」、「聖観世音」、「降魔」、「気楽坊」、「釣隠」、などの名品を見て回る。仏教説話や中国の故事などを題材とした精神性の高い作品が多い。木彫りは自然な感じがとても気分を落ち着かせる。

併設の記念館は、平櫛田中が98歳でこの地に転居して約10年住んだ家である。堂々たる平屋の日本的家屋だ。98歳の時に書いた書「今やらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」にちなんで、「九十八そう?院」という名前をこの家につけていた。入口には、「千寿」という大きな赤い書が掲げてあった。茶室、アトリエ、展示室。坪庭、中庭、庭園。記念館は368.84ヘーベというから100坪以上の広さである。ちなみに展示館は、その約2倍の781.02ヘーベ。総敷地面積は1789.72ヘーベだから、542坪強だ。
記念館の入り口に、巨大な木が立っている。直径1.9メートルで5.5トンの巨木で500年の寿命を持っている。98歳で小平市に転居し向こう 30年間は創作活動を続けられるよう原木を用意してあった。ということは、130歳まで仕事の予定があったということになる。
それを証明するような逸話もあった。同じく天心の薫陶を受けた日本画横山大観、地唄舞の武原はん、そして画家・丸木スマの彫刻をつくろうとしていた。
本間正義氏が、「確か安井曾太郎画伯の描いた「横山大観像」が展示してあり、先生はその前にとまって、じっと見ておられたたが、いきなり、「先生もうしばらくおまち下さい。きっとそのうちに作りますから」といわれた。」と回想している。


 彫刻家たちが作品が売れないと苦しさを訴えたとき、後に生涯の師となる岡倉天心は「諸君は売れるようなものをお作りになるから売れません。売れないものをお作りなさい。必ず売れます」と言われている。このとき田中は、売れないものを作るのは雑作もない、自分の好きなものを作ればいいのだ、と感じている。そのアドバイスの結果誕生したのが、「活人?」「法堂二笑」「?摩」などである。その後、50年以上経って田中は「省みて、先生に背くことの多いのを恥じます。まことに恐ろしいお言葉であると、しみじみ感じます」と言っている。
岡倉天心高村光雲に、絵画の面では、どうにか糸口がついた、しかし彫刻の部では、なんにも手をつけていないので木彫家たちと会ってみたいと言う。そこで田中ら6名が天心を訪ねたときに天心からもらった言葉である。それがきっかけで後に天心を会長とした日本木彫会が結成される。
天心は「活人?」に対して、「あれに弓矢を持たしている、なんで弓矢を持たしたか」「弓矢はいらぬ。弓矢を持たしたって、弓矢はいつまでもあるもんじゃなし、いらないのです。ただこれだけでよろしい!」(といいながら、弓を引くポーズをとる)肌ぬぎにならんばかりです。「私は去年フランスに行ってきました。ロダンにも会いました。あおのじいさんはそれをやっております。偉いじいさんですよ」とおっしゃいました。そして「あんなことでは死んだ豚も射られやしない」と叱っている。
91歳の時、田中は「五浦釣人」という五尺八寸の大きな天心像を作成している。天心が好きな鯛釣りをしているところをうつしたものだ。天心に直接指導をうけたただ一人の生き残りの彫刻家として天心生誕百年を機に仕上げようとしたものだ。田中はほかに天心の胸像をブロンズで7点ほど制作している。
天心を敬愛していた田中は、東京芸大構内の六角堂にあった「岡倉天心像」(田中作)に、登校のたびに最敬礼していた。」という。田中が回想するとかならず天心に着いての回想となる。田中は一日として師恩を忘れなかった。
「先生はすべてがそのように人柄が大きい感じの方でしたが、なさることも大きかったのでございましょう。後年作品を批評していただいた時も、決して細かいことはおっしゃいません。ただ荒く、つまんだようにポツンと批評してくださるそれがドシンとくるのです。」「ごく簡単な要領のいい暗示を与える方でした」
第1回の日本彫刻会展では「活人?」を厳しく批評されたが、第二回展では、「平櫛さん。よくできましたよ」といわれ、不覚にも田中は涙を流している。

天心は「言いたいままを言っている平櫛さんは、一生借金の利息に追いかけられているようなものだ」と言い、その後に「実は自分もそうなのだ」と笑っていた。芸術には妙な運動や取引があってはならないが、現実にはある。それを田中は歯に衣着せずどしどし言うほうであり、風当たりが強かった。

器用な仕事は大嫌いという。自分には修業時代に器用な仕事がくっついていてそれをとるのに苦労している。習い初めの5年なり3年なりは、「無理矢鱈にでも木をこなすことを根本にせなきゃいかんのです」。
「私はかねがね絵に日本が、西洋画があるように、彫刻にも日本彫刻と西洋彫刻の区別があってよい、塑造と木彫は全然性質が違うものだと思っているんですが、、、」(「現代の眼」47号)
「天心はよく、芸術の表現は、”理想”にあるということをいったが、その”理想”をいってくれる彫刻家は田中だけだと語っていたという」(「平櫛田中彫琢大成」)

「鉄砲虫」という平櫛田中の伝記がある。この本には本人や家屋、そして作品の写真が貼り付けてある。不思議なことにそれらは印刷ではなく、本物の写真である。また、書いてある文章は和紙に印刷されている。表紙は染色家・芹沢けい介で、最初のページに武者小路実篤が田中の人となりを書いている。「実に純粋に自分の作品に精魂をそそぎこんであます処のない感じを受ける。百一歳だというのに歩く事は僕より達者で、自分の仕事に没頭して、自分の仕事以外は何も考えていない、実に国宝的存在に見える。逢っていると微笑ましくなる。」
これが同時代を生きた武者小路実篤の印象だった。

荻原守衛31歳。菱田春草38歳。青木繁30歳。以上のような同時代を生きた芸術家達の短い人生と比べると平櫛田中の仕事人生の長さに粛然とする。
平櫛田中先生百寿祝賀会」という弟子たちが企画した会の案内状がある。その挨拶文の中に「壮者も及ばぬおすこやかにして本年目出度く百歳を迎えられました」という文章がある。
「実践、実践、また実践。挑戦、挑戦、また挑戦。修練、修練、また修練。やってやれないことはない。やらずにできるわけがない。今やらずしていつできる。やってやってやり通せ」
「わしもとうとう満百歳。まだまだ仕事が残っている。朝から工房 晩飯がうまい 野葉のかきあげ小えびが二つ 葡萄酒ぽちり 粥一椀 とろりまぶたが重くなる ベッドにごろり たかいびき 夜中に小便2、3回 あさまでぐっすり夢を見ず 死ぬこと忘れた田中団兵衛」
百四歳「午前3時 起床、7時半 食事約30分(8時頃) 書道 10時−11時半、ティータイム まっ茶、正午 昼食、その後歩く練習、午後3時 おやつ、その後入浴、午後6時半ごろ 夕食、8時 就寝、すぐイビキをかいて寝る」

田中は百歳からは「人間徒多事、田中徒百歳」を自粛の言葉として制作の日々を送っている。