高幡不動尊金剛寺の紫陽花祭り

k-hisatune2010-06-27

高幡不動尊金剛寺の紫陽花祭りに出かけた。
3万坪の境内に、200種の紫陽花が7500株あり、その美しさは圧巻だった。

仙台から東京に出てきた2年前に訪問したのだが、この2年間で多摩地域に関しての知識が増えているので、見えるものが違っている。
その一つが、「殉節両雄之碑」だ。この高幡不動尊新選組副長・土方歳三菩提寺であるが、境内に近藤勇土方歳三の顕彰碑が建っている。二人の来歴、人物、業績などを詳しく述べた漢文が大きな石に刻まれている。
「私に碑の撰文を依頼された。私はその立派な志に感銘を受けたので、多摩郡の人、小島為政の作成した二子の伝を基に、その一部始終を順序だててのべたのがこの文である。」
小野路村の小島為政が誌した「両雄士伝」をもとに仙台藩の儒者・大槻盤渓が撰し、てん額は会津松平容保、書は幕府の侍医を務めた松本順の筆である。これらの人物の足跡を辿ってみると、新撰組を巡る人物模様を垣間見ることができる。

小島為政は先日訪問した小島資料館を維持する小島家の当主であった人物で、新撰組近藤勇の義兄弟である。

大槻 磐渓(おおつき ばんけい)は、享和元年5月15日(1801年6 月25日) - 明治11年(1878年)6 月13日)。名は清崇、江戸時代後期から幕末にかけて活躍した漢学者。仙台藩の藩校、養賢堂の学頭である磐渓は、幕末期、仙台藩のイデオローグとして奥羽越列藩同盟の結成に走り、戦後に戦犯として幽閉された。文章家としても名高い。父は蘭学者大槻玄沢。子に国語学者大槻文彦(『言海』編者)。

松平容保【まつだいら かたもり】 (1835〜1893)。美濃三万石松平義建(よしたつ)の六男として生まれ、12歳の時に会津藩松平容敬(かたたか)の養子となる。会津藩の将来を託す期待は大きく、家風である「徳川家への忠誠、そして、皇室への尊崇」を容敬から繰り返し教わる。18歳で藩主となり、28歳の時に京都守護職を拝命。江戸帰還を命ぜられた浪士組のうち京都残留を希望する近藤勇らを御預とし、のちの新選組である「壬生浪士組」を誕生させる。 孝明天皇からの信頼は非常に厚かったが、鳥羽・伏見の戦後その立場は暗転、忠誠を貫いてきた将軍慶喜には江戸城への登城禁止を命ぜられ、朝廷からも逆賊の汚名を着せられ、会津での孤立無援のろう城戦の末官軍の軍門に下る。その後幽閉されたが、明治二年(1869)に家名再興が認められる。晩年は日光東照宮宮司となる。享年58歳。幕末維新については一言も語らなかったと言われる。

松本 良順(まつもと りょうじゅん、1832年7月13日(天保3年6月16日) - 1907年(明治40年)3月12日)は、江戸時代後期の幕臣、明治期の官僚。男爵。初代陸軍軍医総監や貴族院勅撰議員などを務めた。父は佐倉藩藩医で順天堂を営む佐藤泰然。外務大臣の林董は実弟。後に幕医の松本良甫の養子となる。幼名は佐藤順之助。明治4年(1871年)に従五位に叙せられた後、松本順と名乗った。号は蘭疇、楽痴。 * 将軍侍医などを勤め、将軍徳川家茂などの治療を行う。 * 会津藩の下に京都の治安維持の為に活動していた新選組の局長である近藤勇とも親交があり、隊士の診療も行う。 * 戊辰戦争では、幕府陸軍の軍医、ついで奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、仙台にて降伏した。戦後一時投獄されるが赦免され、出獄後、山縣有朋などの薦めで軍医総監となる。征露丸に当人の顔写真がロゴとして使用されている。

司馬遼太郎 『燃えよ! 剣』(土方歳三の物語)と、司馬遼太郎 『胡蝶の夢』(松本良順の物語)はすでに読んでいるので、司馬遼太郎 『王城の守護者』(松平容保の物語)を読むことにしたい。