「知研フォーラム」−100ページの梅棹忠夫先生追悼特集

「知研フォーラム」310号は、会長の八木哲郎さんが渾身の力を込めて編集した梅棹忠夫先生追悼特集号である。
162ページのうち梅棹先生追悼特集は実に100ページに及んでいる。今後、多くの雑誌が追悼特集を組むと思うが、知研の追悼特集はその先駆けになったのでないだろうか。

表紙には、知研のメンバーと談笑する笑顔の若い梅棹先生の姿と、知研の創設者の八木哲郎さんが楽しそうに笑っている写真が載っている。知研と梅棹先生との関係を象徴する印象深いシーンである。
追悼特集の扉は、「梅棹忠夫先生を悼む。我々は知の巨人・梅棹忠夫先生を特別顧問に戴いたことに誇りを感じています。安らかにお休みください。NPO法人知的生産の技術研究会 弟子一同 2010年9月1日」である。

「在りし日の梅棹先生を囲んで」というコーナーでは、梅棹先生との思い出の写真が載っている。1992年5月15日に国立民族学博物館を知研会員18名で訪問したときの記念写真が最初の写真だ。今はもう亡くなった会員、会から縁遠くなっていった人もいるが、懐かしい写真である。真ん中に梅棹先生、向かって左が八木さん、右が私という座り方になっているから、私は40才を超えたところで、会の中心メンバーになっている頃だ。広い円卓で先生に質問をした後、自ら館長をつとめる民博の「梅棹資料室」の中を案内してくださったことを思い出す。当時先生はウイルスで視神経をやられていたが、まだおぼろげながら字が読めていた。民博の館内は隅から隅まで体が覚えているということで、階段も使われた。1994年に大阪のホテルで行われた文化勲章受章祝賀会の様子もある。

さて、知研でお世話になった先生方や会員の追悼の文章がこの特集のメインである。
多摩大の望月照彦先生「梅棹忠夫先生の知の資産から、構想学を構想する」。紀田順一郎先生の「「知的生産の技術」刊行40周年に思う」。小中陽太郎先生の「日本のグーーテンベルグ」は、それぞれ読み応えがある。

秋田英み子「梅棹先生、長い間のご指導・ご研究、本当にお疲れ様でした。どうか安らかにお眠り下さいませ!」。池中万吏江「大往生、梅棹先生」。岩瀬晴夫「梅棹忠夫先生に私淑」。大内勲「リベラリストの巨人梅棹忠夫先生」。小野恒「梅棹先生から影響を受けたこと」。数田伸雄「知的生産の技術−私の場合」。加藤仁一「梅棹忠夫と二度の出会い」。鎌田利幸「今も思い出す梅棹忠夫先生の優しい笑顔」。木下正博「梅棹忠夫先生の思い出」。高島宏臣下「梅棹先生の死を悼む」。高橋茂人「梅棹忠夫先生の手の温もり」。常富博史「「知的生産の技術」を読んで図解を試みる」。中村良二「「知的生産の技術」を読み返す」。久恒啓一「見た・会った・聴いた−−生身の梅棹忠夫先生」。船山信次「梅棹忠夫先生とのいきさつ」。松本清梅棹忠夫先生 ご指導に心から感謝いたします」。万代勉「知的生産の技術を小説指導に応用」。水谷哲也「知研関西と梅棹先生」。水谷弘隆「「モゴール族探検記」再読」。溝江玲子「知的生産の技術は創造するための道具」。村木多津男「知的生産の技術は誰もが身につけられる」。森本隆司「梅棹忠夫先生から学ぶフィールドワークの技術」。八木哲郎「梅棹忠夫先生と私」。
梅棹先生の存在がいかに多くの人々に影響を与えたか、この一連の文章を読むとよくわかる。

最後に「久恒啓一のブログから」というタイトルで、先生の最後の著書となった「梅棹忠夫 語る」(日経プレミアムシリーズ)を読んだ感想と抜き書きが載っている。
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この号には、「最新中国事情」ということで、「北京・上海の旅−−オリンピック後の北京・万博博覧会開催中の上海」という私の紀行文と、八木さんの「中原の地を訪ねる−−天津、鄭州南陽、洛陽、歴史を訪ねる旅」も掲載されている。

また、ちょうどNHKの「ゲゲゲの女房」が好評だが、1982年10月30日にこの水木しげるさんを訪問した記録が「私の書斎活用術」として講談社の文庫の一部になっているが、それを掲載している。タイトルは「楽園を求めて怪奇漫画を描く現代の妖怪人間」だ。1982年ということは水木さんは58才で、そのころはもうおじいさんだったという印象があるから、テレビの主人公の若い役者の顔には違和感を私は感じている。私の「取材メモ」には「漫画家というより、民族学者、人類学者といった趣のある方だ」と印象を記している。
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本日の午後は、マイプリントという企業での研修講師。