渋沢栄一「志を持った人」「提案魔」「出処進退がきれい」

渋沢栄一 雨夜譚・渋沢栄一自叙伝(抄)」(人間の記録41 日本図書センター)を読んだ印象は、「志を持った人」「提案魔」「出処進退がきれい」である。これほどの人物が「財閥」を形成しなかったのは見事だ。

実業家は地位が低く爵位は、男爵しかもらえないこといなっていた。渋沢は54歳で男爵をもらっているが、80歳では特例として子爵となっている。
また、若き日に徳川慶喜に仕えたことから、その後も連絡を取り続け、1911年に慶喜が没した後、1918年の78歳のときに「徳川慶喜公伝」を刊行しているのは人として素晴らしい。渋沢栄一は、1931年に91歳で死去している。

「最初農商の身から俄に浪人となり、浪人から一橋家に仕官して終に欧羅巴に行き、已むを得ざる事から帰って来て、静岡に幽棲する意念であったが、朝命辞すること能わず、現政府に奉職した、、、」

  • みじかしと悟れば一瞬にもたらず、ながしと観ずれば千秋にもあまるは、げに人の一生にぞありける。
  • 商工業者の品位を高める事が必要であると考え、自ら率先して論語の教訓を服膺し自らを範を示すと同時に民間実業家の品位を高めようと考えたのである。
  • 「富と貴きとはこれ人の欲する所なれども、その道を以てせざればこれを得るも居らず、貧と賤しきとはこれ人の憎む所なれども、その道を以てせざればこれを得るも去らず」(論語)の如き、、、。-私は実業界に身を投ずるに当って、論語の教えに従って商工業に従事し、知行合一主義を実行する決心である事を断言した様な次第であった。
  • 私は私が引き続き大蔵省に居ればやがては大蔵卿にもなれる地位にあったが、国を富まし国勢を伸張するために進んで実業界に身を投じたので

あって、、。

  • 畢竟するに老衰とか老耄とかいうのも、新知識の欠乏を意味するに外ならないと考えた。それ故に私も老衰とか老耄とかの誹名を被らぬ様に、常に学び常に新知識の注入に意を用い、更に斃れて後已むの決心を以て進んだならば、国家のために微力を尽すことは困難な業ではあるまいと還暦を迎えて考えたのであった。