ギリークラブで講演−−テーマは「遅咲き偉人伝」

大学で仕事をした後、新丸ビルの21Cクラブへ。
渡辺幸裕さんのギリークラブ主催のミニセミナーで話をする。テーマは「遅咲き偉人伝−−人生後半に輝いた日本人」。一時間強話をして後は、質疑を交えながらの説明。ニュースキャスターの女性、大手食品会社の営業マン、テニスクラブの経営者、エッセイスト、輸入企業を経営する元商社マン、サラリーマン夕刊紙記者などの参加者との一問一答も楽しくこなした。30代から60代前半のメンバーだが、少子高齢時代は遅咲きの時代だというメッセージに大いに共感してもらった。

ある日までに同じ人物記念館を訪ねて、それを肴に夕食の膳を囲むという企画が持ち上がり、3月頃にやろうということになった。池波正太郎記念館、横山大観記念館などが候補に挙がったのだが、こういう具合に発展していくのがなかなか面白い。

私にとっても新しい講演テーマのトライアルという面もあったが、このテーマで十分に話ができるという感触を持った。

そろそろ、アマゾンでも読者の書評が出始めた。

遅咲き偉人伝―人生後半に輝いた日本人

遅咲き偉人伝―人生後半に輝いた日本人

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「遅咲き偉人伝−−人生後半に輝いた日本人」(PHP)で取り上げた最後のまとめの部分を書く。「脱皮型」と「二足型」の8人分。

脱皮型

徳富蘇峰
蘇峰の人生を一望するとぃ、ライフワークである大著の執筆を55歳から始め、89歳で完結させたという偉業に心を打たれる。
55歳という年齢は、今なら役職定年を迎えようとする年齢である。そこから発憤して後世のために、世界最大の著作を書き、完成させるという生き方に粛然とさせられる。高齢社会を生きる私たちに、大いなる勇気を与えてくれる生き方である。

寺山修司
時間がたつにつれその集積が厚みを加えていく、寺山自身の姿が大きくなっていった。ある意味で年齢を重ねるほど、より華麗な花を咲かせていった人生だった。最晩年が人生の頂点であるという生き方である。
俳句から短歌へ、そして短歌から演劇へと至る飛躍の奇跡は、表現の器の大きさを必要とする寺山の成長のプロセスだったと思う。文章や写真を含むあらゆるジャンルを渉猟スル寺山が47歳で行き着いた旅の終わりの時点で総括できるもの、それが寺山修司という人物の全貌である。早咲きで、かつ遅咲きの天才だった。

川田龍吉
幕末から戦後までという途方もなく長い時間と大きな空間を駆け抜けた川田龍吉は、前半の実業家人生よりも、後半の55歳からの農事家としての人生で歴史に名を残したということになる。
川田龍吉の場合、人生の前半にも花は咲いたが、後半に咲いたのは種類の違う、そして大きな大輪の花だった。


二足型

森鴎外
鴎外は生きている間は軍人としての人生を全うし、死後は文人として名を残し、永遠という長い長い時間の中で生き続けることを願ったのではないだろうか。
生きている間に咲くことよりも、歴史という長い時間の中でより大輪の花を咲かせるということを意識した鴎外にも、遅咲きという言葉を贈ってもよいのかもしれない。

新田次郎
一筋の道を歩いているときに、二本目の小さな道が現れ、しばらく両方を歩いていき、あるとき新しくできた道に乗り換えていく。己を知った人の仕事ぶりである。

宮脇俊三
学校を出て50歳までは、本業に専念し、その合間に趣味の鉄道紀行を人知れず続けるという複線型の時代だった。52歳で会社を辞めてからは、プラスアルファの趣味が本業に昇格し、あとは新幹線並みの速力で息せき切って走り抜けた。見事な遅咲き人生である。

村野四郎
二足の草鞋を履きながら、本業以外のライフワークの世界を少しづつ育てていき、道を見つけ、詩人として大成し、名を残す。まさに遅咲き人生のモデルである。

高村光太郎
人生の最後になって、生涯の伴侶であった智恵子を題材に、彫刻家として存分に腕をふるった高村光太郎は、この作品によって画竜点睛、彫刻家としえの人生を全うしたのである。