宮崎滔天--「三十三年の夢」から

宮崎滔天「三十三年の夢」から

  • 家庭の教育は人一代の運命を作るといえることあり、、、父上、、豪傑になれ大将になれ、、母上、、畳の上に死するは男子何よりの恥辱なりと教えたまえり、、、皆言を極めて兄様のようになりなさいと煽りたり、、(家庭教育の及ぼす影響は大きい)
  • 余は実に蘇峰先生の門弟子となりたるなり、、徳富先生と呼ばずして猪一郎さんといえり、(新島穣ゆずりの「さん」づけ)
  • しかり、余が一生の大方針は確立せり、
  • 二兄は彼の高意に従いて支那商館に入り、余は暹羅(シャム)に航して基礎を彼地に作るに務め、両人別れて分業の法に従い、、
  • 実(げ)に夫婦は終生の貞操を強ゆる一種の冒険事業なり。
  • 大丈夫の真心こめし梓弓 放たて死することにくやしき(二兄の辞世)
  • 孫文「今は重任を人に求めて袖手すべき秋(とき)にあらず、故に自ら進んで革命の先駆となり、もって時勢の要求に応ぜんと欲す、天もし吾党に幸して、豪傑の士の来り援くるあらんか、余はまさに現時の地位を譲って犬馬の労に服せん、無ければすなわち自ら奮て大事に任ぜんのみ、、」(孫文の革命に対する姿勢)
  • 我国人士中、彼の如きもの果たして幾人かある、誠にこれ東亜の珍宝なりと、余は実にこの時をもって彼に許せるなり、
  • 余の日本に在るや、常に一貧洗うが如き窮措大なり、しかれども先輩の援助によりて支那に遊ぶや、常に善く散じ善く使うて、もって豪放なる紳的態度を採り、しかして財尽きれば、勿こう去って日本に帰れり、、、しかれどもこれが余が特有の方法なりき、すなわち余が短日月の間において、一部の支那人士に分外の重望を嘱せられたるはこれがためなり、しかしてこれ皆実に先輩の賜物なり、、(この先輩には、犬養木堂などがいる)
  • もっていよいよ桃中軒門下の一弟子となれり、、(浪花節語りの桃中軒雲衛門の弟子となって全国を歩く、、)
  • 三十三年の夢 終(三十三歳までの半生)


(中央に孫文と滔天。荒尾の生家)
宮崎滔天(1871-1922年)は、中国革命に献身し功績のあった革命家。自由民権を主張し後に西郷軍に加わって戦死した長兄・八郎ら兄弟の感化を受けて、アジア問題に関心を持ち、1897年に孫文に出会い、以後熱烈な支援を行う。半生を回顧したベストセラー「三十三年の夢」が媒介となって孫文と黄興が協力することになり、1905年に中国同盟会が結成される。滔天はその機関紙「民報」の発行所を引き受け、「革命評論」も創刊した。1911年に辛亥革命が勃発すると中国にわたり、孫文らを支援した。1912年、南京の臨時大統領就任式に出席、中華民国成立。
1913年には、長崎で孫文を迎え日本各地に随行し、熊本県荒尾の生家に迎える。1915年、衆議院選挙に立候補するが最下位で落選。孫文宋慶齢の結婚式に参列。インド独立運動の志士ボースらを支援。1916年、第三革命のため帰国する孫文に同行。1917年、黄興の葬儀で長沙着、学生の毛沢東に講演を依頼される。1918年、来日の孫文に随行。1921年、広東政府に孫文を訪問。1922年、自宅で病没、52歳。戒名は一幻大〇生居士。

滔天は一種の侠客であった。「三十三年の夢」がよく読まれたことにより、孫文の存在が正しく中国人に伝わり、革命に向けて政治意識が高まり、運動が高揚期を迎えていく。

中国革命に滔天を代表とする日本人が関与していたことを後の共産中国は公言せず、また日本においても滔天は正しく評価されてはこなかった。日中関係のはざまに埋没していった人物であるが、日中関係においてもっと光が当たってよい人物である。