「狂と呼び、痴と笑うも、世間の勝手じゃ。」-豊田佐吉の発明人生

豊田織機製作所の創業者というより、トヨタグループの創業者と呼ばれるべき豊田佐吉明治維新の前年の1867年に静岡県に生まれた。父は大工の名匠だった。小学校を卒業するあたりから父の手伝いを始めた佐吉は「むっつり佐吉」と呼ばれ、新聞や雑誌を読みふけり深く考えこむ少年だった。

「何かお国の為になることをせなければ、折角男に生まれた甲斐がない」と考えていた。しかし書籍も先生も話し遭い手もいないため明けても暮れても考え続けていた。そして東京の工場や横須賀造船所などを見て回る。
20歳を過ぎてようやく付近の農家で織られる手機(てばた)の改良という「発明」に焦点が定まった。そこから父の反対や村人の嘲笑を受けながらの発明生活が始まった。
何度も失敗したのち、1890年の内国勧業博覧会には毎日通い続けたが、工学的知識のない佐吉にはあまり役に立たなかったが、木製人力織機という最初の発明が完成する。これは従来の織機の4-5割ほど高い生産性を発揮した。
「昔から発明家という発明家は悉く貧乏で、おまけに人情の離反、果ては虐げられる。凡ゆる人間の悲哀を嘗め尽して後漸く其の大願望を成就する。」
東京で工場と研究室をもって多忙を極めているときに、佐吉は父からの縁談を断ることができなくて、たみと結婚するが、研究室に閉じこもったきりで食卓を一緒にすることもまれであった。佐吉は新妻を残して豊橋市外の伯父を多訪ねここで糸繰返機を発明するが、残された妻は長男・喜一郎を生むと、姿を消してしまう。
1897年に30歳の佐吉は浅子と再婚する。浅子は事務が上手で優れた内助の功を発揮する。日清戦争後ぼ産業革命の進展の中で、専業中小小機布業の近代化は佐吉らの国産力織機が期待された。佐吉は一足飛びに新しい機械の発明に全力を注ぐのではなく、「当時の機業界を益しながら着々ととして爾後の研究資金の調達およびその他の準備を整え、歩一歩その目的に向かって邁進」(高辻)した。
佐吉の豊田商会、豊田商店の事業に魅力を感じた三井物産は、援助の手を差し伸べ、井桁商会がつくられ、佐吉は技師長になるが、また佐吉は元の豊田商会に戻る。そして商会の経営は弟の佐助、工場は浅子にまかせて、経営から生じた多額の利益をを試験費にあてて織機の改良発明に没頭する。
1906年には豊田式織機会社が創立され、技師長の佐吉はつぎつぎに研究成果を生んでいく。この間、佐吉は完璧主義をもって研究開発にあたるため、納期や製作費には無頓着となって、経営と摩擦を生じこの会社を辞している。
1910年にはアメリカ視察の旅に出る。アメリカの自動織機より自分のものの方が優れていると感じている。1911年位は名古屋市西区栄生町に三千坪の土地を借入れて自動織布工場を新築する。ここが現在のトヨタミュージアム産業技術記念館である。朝は誰よりも早く起きて研究室に入り、夜は研究室に閉じこもって遅くまで発明に没頭した。従業員もこれにならって熱心に働いた。
紡績工場を始めた佐吉は外遊で同伴した西川次を責任者としたが、自信のない西川に「万一失敗に終わりて自分の財産を無にしても、いささかも悔ゆるところなし。汝勇気を鼓して大成を期せよ」と言った。
1918年には資本金500万円で豊田紡織株式会社を創立。
佐吉は中国進出の抱負を次ぎのように語っている。
「それは日支親善の為めじゃぞ。、、日本はどうしても支那(中国)を確かりと自らの懐に入れなければ嘘じゃ。、、、親しみの裡に堅い握手が出来て、互に経済的に解け合い、助け合ってゆけるようにならねば駄目じゃ。、、、先ず官僚外交の前に国民外交が無ければならぬ。、、、何と言っても、何方から見ても支那は日本に取っては実に大事な国じゃ。、、、それには先ず実業家が奮発することじゃ。、、、其の相互の理解が一致して提携となり、親善となり、唇歯輔車の関係が此処に出来上るのじゃ。、、」
支那においては先ず外観を整えて、彼の日本人は偉いなあと思わしめ、信じしめるだけの外形を整えねばならぬ。、、、第二の方寸は事業上成るべく多くの支那人を雇うことだ。そうして先ず此等の従業者に成るべく多く儲けしめることだ。、、、日本の実業家が斯様な心持ちで支那に出掛けるならば、事業は必ず成功し、所謂国民外交の端緒は此処より開け行くものと確信して居る。」
支那四億の国民に日本の企業家の腕一つによりて、世界中一番割安な綿糸布を提供して彼等の生活需要を充たしてやると言う抱負は、余りに突飛な考えであろうか。、、、支那市場が日本紡績製品の本場となるに至れば、、、日本の製品は紡績業の本家本元たる倫敦までも進出が出来よう。、、遂に日本は綿糸布を以て全世界に供給し、全人類に対して一大奉仕を為すの覚悟を以て進まねばならぬ。」
中国に進出した結果、総錐数の40%近くを占めて、イギリス資本を圧倒したが、病気のため上海から帰朝し再びこの地を踏むことができなかった。
刈谷工場で完成した織機は、女工一人で50台の織機を動かすことが出来て、普通織機の十倍以上の能率となった。自動織機の発明を思い立ってから25年の歳月を要したことになる。試験費は500万円を超える。
「狂と呼び、痴と笑うも、世間の勝手じゃ。」
1929年に世界一を誇ったイギリスのプラット会社が工場を見学し「世界一の織機」と称賛し、権利譲渡の交渉が行われ、10万ポンド(邦貨100万円)で特許権を譲渡した。佐吉はこの10万ポンドで「自動車を勉強するがよい」と喜一郎に与えた。病床にあった佐吉は喜一郎に「これからのわしらの新しい仕事は自動車だ。立派にやりとげてくれ。」「わしは織機で国のためにつくした。お前は自動車をつくれ。自動車をつくって国のためにつくせ。と励ました。佐吉は1930年に64歳でこの世を去り、自動車事業は長男の喜一郎の志となった。
1935年の佐吉の六周忌にあたり「豊田綱領」を制定している。

  • 1.上下一致
  • 1.研究と創造
  • 1.質実剛健
  • 1.家庭的美風
  • 1.報恩感謝

トヨタ自動車を中核とするトヨタグループには、この精神がいまも生き続けている。