フィールドワークと文献調査と、記録媒体としてのブログとHP

先日「遅咲き人伝」の方法論について知研のセミナーで講義をしました。以下はその一部です。

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「遅咲き偉人伝」を書くにあたっては、大変苦労しました。なかなか書けませんでした。
この本を書くに当たってやったことは二つあります。一つはフィールドワークです。現場に行ってみることです。もう一つは書物や資料を読み込んでいく。学問と同じです。人物記念館は全国にいくつあるか不明ですが、すくなくとも千館あることはまちがいない。個人でささやかに運営しているところもあれば、自治体でやっているところもあります。
東京に来てわかったのは石井桃子の企画展とか、森鴎外と子供達の企画展とか星真一の企画展とかがいろいろあることでした。東京でいいのは世田谷文学館です。ここは目が高い。
経営者が残したものは何か。明治大正昭和の実業家は何を残しているか。美術館を残している人が多い。大倉喜八郎ホテルオークラ小林一三の阪急、住友吉右衛門住友財閥菊池寛実は京葉ガスをつくった人です。畠山清和は江原製作所の創業者です。岩崎弥太郎の静華堂美術館、ここに行っておどろいたのは、館長が文化人類学者の中根千枝さんでした。東邦生命の太田誠三、豊洲に行くとリッカーミシンの平木浮世絵館があります。
昔の偉い実業家は美術館を残しました。渋沢栄一は実業家達をアメリカに連れて行きアメリカの富豪のつくった美術館を見せました。皆が美術館を作ろうという流れをつくったのは渋沢です。京都には朝日ビールの大山崎山荘美術館が在ります。これは民芸です。月桂冠記念館、黄桜記念館など、企業博物館的にやっているところもあります。金沢には雪の科学者中谷宇一郎の記念館があります。また洋画家の宮本三郎の記念館があります。
熊本では、北里柴三郎松前重義、宮崎淘天を予定しています。
新聞雑誌にいろいろな企画が案内されます。最近の日経の文化欄に田中正造足尾鉱毒事件を特集していました。田中正造記念館。静岡に行くと芹沢光治郎の手紙を公開しています。江戸博物館では江戸城を撮った写真家横山辰三郎、こういう切り抜きをもっていると何かの拍子に寄ってみようという気になります。
記念館に行くとん、メモを取ります。メモは一〇〇円のキャンパスノートです。新田次郎宮脇俊三もこれを使っていました。その場でこの言葉はいいなと感じたことはメモに書きます。それからデジカメは必ず持って行くことです。その場で感じてメモをとるといい記録が取れます。そういうには本や雑誌にないものがあります。
私はこの人は何という名言を吐いているかを集めています。名言集というのが出ていますが、私は訪ねていって感じたものだけを集めています。
あとブログが大事です。二〇〇四年九月二十八日からブログ始めました。二〇〇五年から記念館巡りを始めましたが、ブログがなかったら記憶が残らなかっただろうと思います。現地に行ってなるほどと感じて本を買ったり、資料をもらって電車の中で読んだりして翌朝ブログを書きます。これが残っているためにそれにいろいろなものをくっつけていけばいい。やはりその場その場で書かないと無理だという感じがします。
書籍は現地でしか手にはいらないものが面白い。近親者の書いたものや周辺者の感想などが面白い。宮沢賢治記念館は立派ですが、石川啄木記念館は粗末です。啄木は借金を踏み倒す、浮気はする、友人の金田一京助に迷惑はかけるで地元の評判はあまり芳しくなかったことが伺われます。
大隈重信追悼特集の実業の日本を佐賀で手に入れたのですが、当時の著名人の大隈評は実に面白い。過去を語らぬ人で未来のみをいつも語っている人だったそうです。
自伝や評伝がありますが、私の感じでは自伝が一番面白い。自分の事をなんと言ったか。マークをつけながら読んでいます。
この本(遅咲き偉人伝)は非常に苦労しました。今まで書いたのは図解の本が多かったですから、楽だった。自分のオリジナルな考えですから参考文献はいらなかった。私はこう思いますと書けばいい。梅棹忠夫先生は「私は引用しない」と言われています。私がどうしてですかと聞くと、私は本はたくさん読むがオリジナルなことしか言わないことにしていると。さすがだなと思います。私もそう思って人の本はなるべく読まないことにしました。影響をうけますから。それでこれまではよかったのですが、この本では様子が違いました。編集者から注文が多かった。これは何年何月何日の話ですかとか、何という本の何ページに書いてありますかとよく聞かれました。次に校正者が控えています。あらゆることを知っているインテリがいてあらゆるところを直されました。私もなるほど相手の言う通りだなと感じ、そのとおりに従いました。もう一回本を読み直したりしたので、発行が半年くらい遅れました。
二〇〇六年にPHPの「ほんとうの時代」という雑誌の編集長が仙台に来まして、図解を本当の時代に連載しませんかと言われました。私は「ほんとうの時代」は図解をやらなくて本物の日本人をやるべきだと言いました。それを私が書くからということで、人物記念館の旅の連載がきまりました。この人がPHPエディターズグループの役員になりました。この人が、二〇〇八年に私が多摩大に赴任してから、歴史方面の編集者を連れてきて、担当者になりました。彼は二〇年近くもいろんなテーマを編集してきたが、今の時代をみたら、遅咲き偉人伝というのはとてもよい、それでいきましょうということになりました。一人の偉い人間を原稿用紙何十枚も書くことは大変です。いい加減なことでは書けませんから筆が動かなくなってしまう。一九人にしぼり特徴を浮かび上がらせる事にしました。
やがて、編集者から「できましたか」と連絡が来ます。「ちょっと待ってください」ということのくりかえしでなかなか進まなかったのですが、彼は今年中になんとかなればいいやという寛大な人だったのでたすかりました。だいたい編集者という人種は強引そのもので「明日までに書け」とか、最初は処女の如く、最後はサラ金の取り立て人のごとくですから(笑い)。
二〇一〇年になってすこしメドがたって前半にいちおう書き終えました。編集者は北一輝とか白洲次郎などを手がけてきた人ですから、なかなかうるさい。ああしろこうしろ、なぜこの人が遅咲きなんですか、と突っ込んできたり、あなたの解釈をきちんと書いてください、といわれるたびに、考えて書き直しますからだんだんよくなる。最後に概略を書きました。校正マンには感謝しています。一二月中にやっと発行にこぎ着けました。

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遅咲き偉人伝―人生後半に輝いた日本人

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金先生、中庭先生、豊田先生、、。