周恩来記念碑・魯迅の成亭酒店・古本--神保町

朝8時から九段で教育検討会議。テーマはカリキュラム。
終了後、今泉先生とグランドパレスで歓談。

終わって、昨日寺島さんから聞いた近くの周恩来の記念碑(神保町2丁目)をさがす。
小さな愛全公園のなかに、「周恩来ここに学ぶ--東亜高等予備校跡」という碑が建っている。1898年生まれの周恩来は1917年に19歳で日本に留学しこの予備校(初代校長・松本亀次郎)で日本語を学び大学進学の指導を受けるが、果たせず失意のうちに1919年に帰国する。この碑は1998年の生誕百年、日中友好条約締結20周年を記念して千代田区日中友好協会が建立したものだ。日本語と中国語で書かれた説明では、ここで学んだ後に帰国し天津の南関大学に入学したとのみあるが、実際は1年半の日本留学で目的を果たせなかった。そのことは書いていない。
周恩来「1十九歳の東京日記」(小学館文庫)と小倉和夫「パリの周恩来--中国革命家の西欧体験」(中公叢書)を注文する。
「革命か、勉学か。悩める若き周恩来の東京留学日記が新たに公開され、このたび、その全文を本邦初訳する。東京の周青年は、けっきょく受験に失敗して失意のうちに帰国し、燃え上がる祖国の革命運動に身を投じていく。しかし、この一年数ヶ月の東京滞在経験が、その後の日中友好・親善に果たした役割ははかり知れないほど大きい。大正7年、若き宰相が隣国・日本で考えたこと、そして帝都・東京で見たものとは、いったい何だったのか。神田、早稲田、浅草、日本橋大正デモクラシーモダニズムの花咲く、大震災前夜の帝都・東京の案内コラム付き。」
「留学四年間に何を見、いつ、どのようにして革命家になったか。とう小平、ホー・チ・ミン、レーニンが滞在したパリ、調査と研究十年、青年周恩来の行動と思想形成を追う。」

近くにあった「ラーメン二郎」に入ろうとしたが休みだった。三田で再開した店は慶応義塾大の学生たちに人気だった。そののれん分けの店。

ということで、九段サテライトへの道の角にある「成亭酒店」(かんきょうしゅてん)に入る。看板には、紹興酒のふるさとである中国浙江省紹興に1894年ー1896に実在した店とある。魯迅を始め多くの文化人に愛された。魯迅紹興酒とともに生家の近くにあったこの店をこよなく愛し、名著「孔乙己(こういっき)」の舞台として描いている。この店を日本で出したものだ。
石づくりの建物と柳の木は古都・紹興の街並みを連想させる。

その後、神保町の古本屋で本を数冊購入。
「倅・三島由紀夫」(文春文庫)と阿川弘之「南蛮阿房列車」。
前者は三島由紀夫父親が倅を書いた追想記。昭和45年11月15日の自衛隊市ヶ谷への乱入事件から記述は始まる。「自衛隊の有志と語らって国会を占拠し、憲法改正の発議をさせよう」と考えた三島らが行った事件で、三島は切腹森田一生の介錯を受けて死ぬ。当時大学生で三島のファンだった私も衝撃を受けたが、世間も騒いだ。
母親からの聞き書きを読むと三島由紀夫の死を予感している。「処女作以来、発表する前に必ず私に原稿を見せるのがならわしでしたが、、」「子供のときから夕日と富士山と海が大好きでした」「毎晩かかさず、「お休みなさい」を言いに私のところに参ります。」「今年の末に完結するはずだから、それからとすれば明年1月ごろには何か起きるかしら」と予感され、慄然としました。」
三島由紀夫が親孝行だったこと、恩賜の時計をもらったこと、大蔵省勤務と小説書きとの二足のわらじの様子など、父親の眼で見える三島像には意外な点が多かった。

伜・三島由紀夫 (文春文庫)

伜・三島由紀夫 (文春文庫)