宮崎駿---三鷹の森ジブリ美術館 (多摩人物紀行⑤)

ナウシカ」「ラピュタ」「トトロ」「千と千尋」「もののけ姫」と続く名アニメーションの数々を世に送り出した偉大なアニメーション監督・宮崎駿の記念館はまだない。まだ現役だから当然だが、この人物の志を知りたくて「三鷹の森 ジブリ美術館」を訪ねた。

中央線の三鷹駅で降りて、太宰治が自殺した玉川上水に沿って歩き山本有三記念館を過ぎて角を曲がると井の頭公園の一角にあるジブリ美術館に着く。この美術館には宮崎駿本人を知るための直接の資料はほとんどなかったが、宮崎駿の名前は館主という肩書き表示で存在していた。

広い空間をどのようにまわるのかと考えていたら、「決められた順路はありません。順路を決めるのはあなたです」「この空間を心から楽しみ『迷子』になってくれる主人公を、心より歓迎いたします」との表示がパンフにあった。

ここは珍しい日時指定の予約制の美術館だが、春休みだけあってやはり子ども連れの家族が多い。どの子供たちの顔も楽しそうだ。

3階建てのジブリ美術館。半地下には映像展示室「土星座」、1階は中央ホール、2階は常設・企画展示室で1973年のハイジなど作品の一部が展示されている、また映画づくりの現場も見せてくれる。アニメーターの条件というのが書いてあって「絵がかける」「人や物の動きを理解し表現できる」「作業能力がある」そして「職人的な素養」、加えて「生命への愛情」と書いてあった。3階は、ネコバスルーム、ショップ「マンマユート」、そして外付けのラセン階段をのぼるとまもり神のいる屋上庭園に着く。1階のパティオ(中庭)と3階の鉄橋からは「麦わらぼうし」というカフェにいける。

買って帰った本によると、「やはり子ども向きのいい映画を作るっていうスタジオにしておこうと思うんです」との記述がある。子供達に励ましや世界を美しいと思うすべを教えようとしている。未来への希望を伝えようとしていると感じる。

宮崎駿はアニメの分野では、先達の手塚治を批判する。手塚のアニメは日本の漫画から出発したのではなく、ディズニーから出発したという分析だ。宮崎駿によればディズニーは入り口と出口が同じだという。入った低さから少しでも高くなって出すようにしたいのが宮崎駿の考え方だ。だからいつの間にか階段を昇ってしまうようなチャップリンの方を好んでいる。

盟友のアニメーション監督・高畑勲宮崎駿観が、仕事に向かう宮崎駿のすべてを語っているように見える。

宮崎駿はすごい働き者である」「宮崎駿の頭は大きい」「宮崎駿とのキャッチボールは大変である」「宮崎駿の頭脳はいつも忙しい」「宮崎駿は苦労人である」「宮崎駿は極端な照れ屋である」「宮崎駿は平気で暴言を吐く」「宮崎駿は思い入れの人である」「宮崎駿はとことん具体性を重視する」「宮崎駿は克己の人である」、、、。

過剰表現主義と動機の喪失が日本のアニメーションを腐らせているという宮崎駿は、継続的にアニメーションを作り続ける母体としてスタジオ・ジブリをつくった。表現者であると同時に、経営者としてこの組織を続けることにも力を注がねばならない。時代を駆け抜けて大きな存在になってきた宮崎駿も、もう70歳に近い。ジブリ美術館の総合デザイナーだった息子の宮崎吾郎は、父の後を継いで「ゲド戦記」に続いて「コクリコ坂から」を監督するなど必死で追いかけはじめた。

宮崎駿は「日本を舞台にした時代劇」というテーマを持っているという。私たちはこの人物と同時代を生きて新作を最初に観ることができる幸せを、いつまで持ち続けることができるだろうか。
                 (久恒啓一 多摩大学経営情報学部教授)

多摩大学広報誌「Rapport」075--多摩人物紀行5 2011年11月号)