「佐藤栄作日記 第四巻」を読了

佐藤栄作日記第四巻を読了。

佐藤栄作日記〈第4巻〉

佐藤栄作日記〈第4巻〉

佐藤栄作は連続在任期間は1964年から1972年までで歴代総理中最長の7年8ヶ月という長期政権だった。私の大学時代までずっとこの総理だったし、在任当時はあまり評判のいい人ではなかったのでいい印象は持っていなかった。
この人が書いた24年間の日記40冊が6巻の書物になっているが、この中の第三次内閣を組織した1970年と1971年の二年分を読み、その印象を変えた。

69歳から70歳という年齢で総理大臣という激務の中、土日は必ずといってよいほど鎌倉の別荘で過ごし、息子の龍太郎や信二とゴルフをしている。この別荘は旧前田家の別邸で、今は鎌倉文学館になっているから一度訪れたことがある。素晴らしい庭のある建物で、三島由紀夫の「春の雪」の舞台になったところだ。精神の健康も含めて毎週のゴルフに対する執念は意外だった。バックティーで打っている。この人にとってもゴルフはうまくいかないのは微笑ましい。ただホールインワンも達成していた。

また日記の中には寛子夫人の動静と息子や孫たちとの食事会などの様子が短く紹介されている。この人は家族関係にも恵まれた人だったのだという思いを強くする。

定期的な健康診断の結果の記述、「大臣病患者の訪問にはほんとにあいそがつきる」というような慨嘆、少ないが愚痴のような言葉、事件や法案に対する感想、人物譚、そして友人・知人たちとの交流の基礎になっている会合の記述、デノミ要請などの政治案件、日航よど号事件、朝日新聞への攻撃、ファンである司馬遼太郎坂の上の雲」などの読書、都知事選、陛下への内奏、三島由紀夫事件、沖縄本土復帰や繊維交渉に関する断続的な記述など、実に興味深い。

政治に関しては三木、福田、田中、中曽根、細川などの後の総理がよく出てくるが、誰に肩入れするということもなく、公平に淡々と記している。「中曽根君がはりきりすぎて波紋、、」「田中幹事長のおしゃべりには閉口、、電話で叱る」、「叱りおいた」「注意事項を話する」「後継者が三木君以外に育つかどうか問題」「此の天この人の欠点か」「説得して帰す」「田中幹事長に注意する。走りすぎにブレーキ」「いずれ時期が解決するものと思ふ」「油断大敵。いつでもこの言葉を忘れてはならない」「油断なき様と余計の事だが注意する」「親類は出来るだけ顔を合す様に努力しないと遠のくものと思ふ」「大臣へ自己推薦したので叱りおく」「選挙後の人事が一つのねらいか」「「やや自慢でもある」「数はいるが人はいない」「この評価は後世史家の評価に待つ」、、。
やはり「人事の佐藤」と言われたことが納得できる。

出てくる名前は、浅利慶太梅棹忠夫茅誠司盛田昭夫江田三郎、松尾静麿、田中耕太郎、石田礼介、石原慎太郎石原裕次郎、山岡壮八、安岡正篤、中山素平、三浦雄一郎松下幸之助大宅壮一東郷青児岡本太郎、、、、。

また、家族、孫、友人、先輩、そして数多くの陳情をこなすなど、佐藤栄作という人物はバランスの良い人だったと思う。

「問題は何といっても一つ一つ対策をたてて実効あらしめる事、議論ではない」

佐藤は本人自身が「当方も晩成なので、、」というように五高同期の池田総理の後塵を拝したが、その後に総理の座を射止め、結果的に長期政権を達成した。この点は師匠の吉田茂と似ている。

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大学で諸橋学部長と。
今泉先生、豊田先生、下井先生、望月先生。

今日は久しぶりに、自宅から堀之内、永山から多摩大の往復を歩いた。