男児志を決して千里に馳す--新島襄旧宅を訪ねる

新島旧邸。

同志社大学をつくった新島襄(1843-1890年)は上州安中の武士だったが、海外への目が開かれて、21歳の時に函館から出航しアメリカに渡る。函館の港で「新島襄出航の地」という碑を見たことがある。また京都の同志社大学のNiijima Roomという名前の記念室を訪問したこともある。

新島が渡米した1864年当時はまだ幕末で騒然とはしていたが、まだ鎖国が継続中であり、見つかれば死罪という冒険だったのだ。フィリップス高校、アーマスト大学、アンドーヴァー神学校と勉強を重ね、滞米10年を経て、新島は1974年に横浜に到着する。28歳の時には、ワシントン駐在の森有礼(1847年生まれ)とボストンで会い、留学生という形にしてもらっている。日本で休暇をもらった新島は故郷に帰り、家族のいるこの家に29日間滞在する。この間、キリスト教を語り、この安中は上州伝道の礎石となるのである。

キリスト教の大学を創ることを志とした新島は、32歳の時に同志社英学校を開校する。最初の出発は8人の生徒だった。そして33歳の時に、友人となった会津出身の山本覚馬京都府会初代議長)の妹・山本八重と結婚する。この八重は戊辰戦争に従軍した女丈夫(おんなますらお)であり、来年のNHK大河ドラマの主人公になる女性である。八重は若松城の落城の歌を詠んでいる。
  明日の世は何国の誰か眺むらんなれしを城に残す月影
のぼる、八重さんと呼び合った二人は西洋スタイルの生活を送る。新島は家事にも協力的だった。

1883年に開催された第三回全国基督教徒大親睦会の集合写真に、新島襄内村鑑三が隣同士で並んでいる珍しい姿を発見した。この写真には津田仙の熊本バンド、韓国の李樹延などのメンバーがみえる。この二人は同年齢にみえたが、実際は新島40歳、内村22歳だった。

 いしかねも透れかしと一筋に射る矢にこむる大丈夫(ますらお)の意地

 良心の全身に充満したる丈夫の起り来たらん事を(良心碑:同志社大学今出校地に建つ)

男児志を決して千里に馳す
自ら辛苦を嘗む豈家を思わんや
却って笑う春風雨を吹く夜
枕頭尚夢む故国の花

時危思偉人(時危うして偉人を思う)
 偉人とは一国の良心ともいうべき人。良心を手腕に運用する人物。

家の裏に詩碑「十二の石塚」があり、湯浅半月の詩が刻まれている。題字は新島とも縁の深い徳富蘇峰(1863年生まれ)だった。