富岡製糸場--シルクロードの旅

1873年に操業開始した富岡製糸場。生糸から絹を創りだす工場である。
木骨レンガ造り、総ガラスの美しい巨大建築物は、明治5年にできた。明治維新からたった5年後だから、世の中がまだ騒然としている時期に、殖産興業のモデルとして世界最大の繰糸場が日本にできて、養蚕業で外貨を稼ぐ態勢が整った。その当時のままにレンガ造りの建物が残っているのは奇跡である。

この工場は、官営、三井、原合名、片倉と所有者が変わっていって、1965年まで操業を続けていた。この間、経営権は移動したのだが、製糸業という業種は継続した。だから工場を壊されなかったのである。
片倉は、戦前には5番目あたりに位置する財閥だった。長野県諏訪に本拠地がある。諏訪湖のそばにある千人風呂などを見物したことがある。この会社の理念は、「売るな。貸すな。壊すな」であり、一度手にしたものは壊さずに、ずっと維持し持ち続けてくれた。そしてそのまま2005年に富岡市に寄贈し、それが国の重要文化財に指定された。残ったのは片倉のおかげである。
世界遺産への登録の動きがあるが、その理由は以上による。

開業当時には、全世界に数千あった製糸工場は今では一つも残っていない。ただこの富岡だけが残った。開業以来わずか10年で日本全国に1000の製糸工場ができて、それが日本の外貨獲得に大きく貢献した。

開業当時に関わった人たちの年齢は、大蔵省の渋沢栄一32歳、渋沢の従兄で初代所長・尾高惇忠42歳、建物を造ったフランス人ブリュナ32歳という若さだった。お雇い外国人は19歳から35歳という若さだった。

この富岡製糸場に関わった渋沢栄一、中上川彦次郎、原富太郎、片倉兼太郎という歴代の人物の名前をみると感慨が深い。私の近代人物の旅で縁のある人たちだ。
三井時代の1891年には、大分県中津から工女25名の入場があった。中津の田舎新聞によれば、中津藩士族たちは製糸会社「末広会社」を設立した。この会社の指導者にするたえに派遣したのがこの工女たちだった。彼女らは福沢の慶応義塾に宿泊し、また旧藩主奥平氏にも面会をしている。因みにこの時の引率者が増田しかである。彼女は福沢の又従兄弟で西南戦争にあたって西郷軍に殉じた中津隊の隊長・、増田宗太郎の未亡人だった。大分県は製糸、紡績業が興隆した。確かに私の子供時代には鐘紡などの大きな工場があった。それはこういう経緯だったのだ。

また、三井時代には大番頭の理事・中上川彦次郎、初代所長・津田興二、呉服部専務理事・朝吹英二などが活躍した。彼らは中津出身で、福沢諭吉慶応義塾で学んだ人たちだった。福沢の経済思想に影響されて製糸所の経営にあたったのである。これも中津出身の私には驚きだった。

工女であった和田英が「富岡日記」を残しており、当時の様子が克明にわかる。「精解 富岡日記 富岡入場略記」(和田英著・今井幹夫編)を購入して読んだ。当時の若い娘がこの製糸場に入る時に国の父と母の言葉、建物を初めて見た時の感激、長州からの工女たちへの反発心、一等工女への昇進時の感激などが書かれており、その健気な心持に感動する。当時の日本人、日本女性の気高さに心が打たれる。

考えてみれば、トヨタ自動車豊田織機製作所から派生した会社であるし、日産もスズキも、織物機械にルーツがある。そう考えてみれば、その出発点がこの富岡製糸場であったともいえる。明治の殖産興業から日本の近代産業が出発したのだから、ここがその原点であったのだ。

今回の一泊二日の群馬の旅は、絹の道というテーマだった。群馬・富岡から八王子、そして横浜というシルクロードをたどったことになる。それが実は私の故郷・中津ともつながっていたことを発見して嬉しくなった。