日本を愛したポルトガルの文人外交官・モラエス


ヴェンセウラウ・デ・モラエス(1854-1929年)は、ポルトガル人の高級軍人であり、かつ日本をヨーロッパに紹介した文人でもあった。徳島の街を一望できる眉山の頂上にモラエス館が建っている。

モラエスは1889年、35歳の時に初めて日本を訪れる。長崎、神戸、横浜を巡る。そしてその4年後にも大阪の陸軍兵器工廠で兵器購入の研究と交渉に入り、滞日中に東京、鎌倉、日光などを訪問している。翌年の1894年には気象観測用の器具購入とその分野の情報収集のため日本に出張する。この滞在中に日清戦争の宣戦布告を横浜で知る。

43歳、人事の不満があり、マカオの港務副司令官のポストには戻らず、神戸領事に任命されるように運動を始める。この年、京都御所明治天皇と皇后に拝喝している。
45歳、神戸大阪ポルトガル領事。
46歳、芸者おヨネと知り合い、同棲を始める。
49歳、大阪で開催された第五回内国勧業博覧会で奔走し、ポルトガルの物産を展示する。ラフカディオ・ハーンが東京で死去。
58歳、おヨネが38歳で死去。
59歳、領事退任と海軍軍籍を離脱。おヨネの故郷・徳島に渡り、おヨネの縁戚のコハルと暮らし始める。
62歳、コハル23歳で死亡。
75歳、死去。

以上が日本との関係の概略だが、この間に41歳の「極東遊記」を皮切りに、「大日本」、「日本通信」、「茶の湯」、「シナ・日本風物史」、「日本の生活」、徳島の盆踊り」、「コハル」、「オヨネだろうか、、、コハルだろうか」、「正午の号砲」、「日本におけるフェルナン・メンデス・ピント」、「大日本」、「おヨネとコハル」、「日本歴史」、「日本夜話」、「日本精神」、など膨大な日本観察の著書を書いている。

モラエスより4つほど年上でほぼ同世代のラフカディオ・ハーン(1850-1904年)は40歳で来日し、以後54歳で亡くなるまで松江、神戸、東京に住み、日本を題材とした小説や紀行文を書いたが、日本の紹介者としてこの時代にはモラエスと双璧だった。残念ながらこの二人は会っていない。

1931年にモラエス翁追悼法要が営まれ、以後「モラエス忌」として今日まで続いている。
1976年には徳島にモラエス館が開館する。
1979年には毎日新聞にモラエスを描いた新田次郎の「孤愁--サウダーダ」が連載されるが、新田次郎の死去によって未完となった。この作品が新田の絶筆だ。

この人の年譜をたどり、「モラエス--サウダーデの旅人」(岡村多希子)を読むと、恋多き、憂愁の文人モラエスの姿を偲ぶことができる。この人はもっと知られていい。