徳島県立鳥居龍蔵記念博物館を先日訪問した。


鳥居龍蔵(1870-1951年)という名前は初めて聞いたのだが、経歴を知り、事績を見、そして67歳までの自叙伝「ある老学徒の手記--考古学とともに六十年」(朝日新聞社刊)を読んで、その生涯に感銘を受けた。

日本における人類学・考古学・民俗学の先駆者で、中国遼東半島調査、四度にわたる台湾調査、中国西南部、千島列島、中国東北部内モンゴルなどのフィールドを精力的に調査している。
東大人類学教室で博士号を取り助教授にも昇進するが、54歳で辞職しきみ子夫人ら家族とともに鳥居人類学研究所を設立する。
69歳、ハーバード・燕京研究所に招かれて家族で中国に移住し、ライフワークである中国王朝「遼」の研究に従事する。81歳、帰国。83歳、永眠。

順調に学徒の道を歩んだように見えるが、さにあらず。
「私は学校としては正式に修業せず、小学二年の中途で退学されたもおんである」と本人が述懐しているように、小学校中退という学歴である。すべて独学自修という勉強のやり方だった。1862年、同じく四国高知生まれの植物学の牧野富太郎と同じように小学校中退で、後は自分の好きな分野の勉強に邁進した生涯である。

自叙伝の「結語」にはこの鳥居龍蔵の気概が記されている。
「私は学校卒業証書や肩書で生活しない。私は私自身を作り出したのでえ、私一個人は私のみである。私は自身を作り出さんとこれまで日夜苦心したのである。されば私は私自身で生き、私のシンボルは私である。」
「街の学者として甘んじている」

小学校では、富永先生に感化を受けて、歴史、地理、博物等の書物を読み、古墳や石器などに入り込み、これらを探すのを楽しみとした少年となった。学校が面白くなくなり、尋常小学校1.2年の間に二度、落第し、辞めている。

その後は、独学で書物を読み進めていく。新聞を読み、中村正直の「西国立志編」を好んで読んでいる。
満20歳になり、親戚のおじの「家で商売しておれば一生生活に不安はないが、名誉は得られない。これに反して一心に学問に従事せば生活上の困難はあろうが名誉は得られる」との言に、後者を選び勇躍一家を挙げて上京する。
旧知の東大人類学教室の坪井教授から「理科大学人類学教室標本整理係」として採用してもらい、人類学教室の一員となり、その後の大活躍につながっていく。

鳥居龍蔵は、シュリーマンの人生についての講演で発奮し、またスマイルスの「自助論」(中村正直「西国立志論」)などを好んで読んでいる。アングロサクソンの自修独立に感化を受け、自助の精神を身に付けた。

多摩の国分寺崖線も鳥居の発見のようだ。

1923年の関東大震災を鳥居は53歳で迎えている。鳥居は人類学教室員を率いて、震災跡を探査撮影し、考古学の資料に供している。東京市は火災のため焼失し、昔の武蔵野に戻り、鎌倉時代の風景のようであった。多くの古墳が現れたきたので、学問上にはすこぶるいい調査の時期となったようだ。

小学校の退学、東大での先輩や先生との衝突などの事情を読むと、独立不羈の精神が旺盛であることが読み取れる位。

鳥居龍蔵はという人は、早い時期から取り組むべきテーマを定め、それに向かって邁進している。
そして「極東」を思う存分に踏破し調査した探検家になった。

67歳以降83歳までの研究人生も興味深い。