画を望まば我に乞うべし、絵図を求めんとならば円山応挙よかるべし

先日訪れたボストン美術館展は、曾我蕭白の壮大な「雲龍図」に感銘を受けた。
襖からはがされた状態で保管された絵を今回修復して展覧したのだが、その絵には欠けた部分がありそうだ。完成形では一頭の龍がぐるりと部屋を囲んでいたということらしい。この龍に囲まれた部屋にいたならば、鑑賞するというより龍を体験することになる。

曾我蕭白は「画を望まば我に乞うべし、絵図を求めんとならば円山主水(応挙)よかるべし」と言っている。

これはどういう意味だろうか。
同時代の円山応挙(1733-1795年)は「写生」で一時代を画した画家である。近現代の京都画壇にまで系統が続く円山派の祖だ。
この応挙を蕭白は絵図(説明図)と言って認めていない。そこには精神性が欠けていると非難しているのではないか。
絵に理念を求めたフェノロサ蕭白を高く評価したのは、その精神性にあるのではないだろうか。

曾我蕭白(1730-1781年)は17歳で両親を失う。
20代の終わりには伊勢に旅をし、33歳の夏には播州高砂に足を運び、再び伊勢を再訪し、38歳で再び高砂を訪れている。
それぞれの地で作品を残しているが、同じに逸話も多く残っている。蛇足軒と自ら号した。

  • 「金銭に就ては少しも念がなく夫が為に食事もできない様な事が折々あった様である」(桃沢如水)
  • 空腹のために歩くこともできず路傍で寝ていたのを豪農が親切に連れ帰り何ヵ月か逗留させた。
  • 安養寺の達磨を描いた衝立は、空腹で本堂で寝ていたのを風体怪しき画家(蕭白)を一晩泊めたときに酒を一升飲んで描いた。
  • 伊勢永島家の障壁画は、泥酔していた蕭白を介抱して新築の家に連れ帰った際に描かれた。

蕭白の前半生は、自由気ままに振る舞いながらも食うことを求める放浪の画家だった。後半は京都を代表する画家になった。

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スカイツリー開業日。

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