野依秀市

渋沢栄一三宅雪嶺と写った写真。

右翼ジャーナリスト。1885年大分県中津市生まれ。1968年死去。小学校卒業後上京、慶応義塾の商業夜学校に学ぶ。在学中、友人石山堅吉(のちダイヤモンド社を設立)の協力を得て「三田商業界」(のち「実業之世界」と改題)を発刊、三宅雪嶺渋沢栄一らの庇護をうけた。東京電燈の料金値下げ問題などにからむ恐喝などで二回の入獄後、浄土真宗に帰依、21年「真宗の世界」を創刊、32年大分一区より代議士に当選。同年「帝都日日新聞」を創刊し社長となったが、44年東条内閣攻撃のため、45回の発売禁止処分をうけたのち廃刊。戦後は公職追放を受け、解除後は、55年衆議院議員日本民主党)となり、保守合同に活躍。58年の総選挙では落選。また「帝都日日新聞」を復刊(58年)、とくに、深沢七郎の「風流夢譚」問題をめぐり、中央公論社を激しく攻撃し、また紀元節復活法制化の先頭に立ったことで知られた。著書多数。全集がある」

「天下無敵のメディア人間」(佐藤卓巳)では、発言内容の真偽よりも、発言する媒体(著者)の知名度が重要だという発想と考え、地震を広告媒体と強烈に意識した宣伝的人間と「メディア人間」を規定している。われとわが身までも広告媒体化し、ひたすら自己宣伝につとめる人間である。
大宅壮一は、「ジャーナリズム最後の段階としての野依イズム」と呼んだのはさすがに慧眼の持ち主だ。大宅は大分県人気質をスペン人気質としている。
「熱血漢ではあるが、うつり気である。純情で、詩情も豊かだが、その半面において打算的、功利的で、利害に敏く、ときには狡猾であり、無恥ですらある。激情に駆られることもあるが、冷めるのも早い。(略)大分県人に共通した性格は、何か夢を、ヴィジョンをもっていることである。その夢やヴィジョンが思うとおりにいかないと、途中でインチキに変質することが多い点でも、スペイン人を思わせる」と言った。

身長四尺八寸七分というから147.6センチの単躯。双葉山の媒酌人。

渋沢栄一「世の新聞雑誌が、虚礼虚飾を尊ぶ間に在りて野依氏が、独り超然として正を生とし邪を邪とする心事は、実に私の愉快に感ずる所であります」

草野心平「狂信的で暴れんぼうで、いわば火だるまみたいな人物だった。その火だるまのなかには一種独自なユーモアがあった」「私は自分の生涯で、あのような特異な怪物に接したことはなかった」

あらゆる権威を敵にまわした野依だが、新渡戸稲造を、愚人の敵、青年の敵、国民の敵として糾弾している。「彼の武士道を唱道するが如き手合ひは、武力全能戦争万能の旧思想と旧迷信とを一歩も踏み出し得ない人間であって、日本人の政思想に取って、一大侮辱と言は無ければならぬ。」

野依は、資力と人力の揃った新聞社の言論の委縮も攻撃している。メディア批判をビジネスとして確立した。
鳩山一郎にも厳しい。「言論が如何に戦時中不自由であったにしても、真に国を愛する立場から言ふならば、相当言へぬことはなかった。、、戦争に敗けてからノコノコ選挙に乗り出して、、チャンチャラおかしいです」

野依秀市という怪物の全貌はつかめないが、実に興味の湧く人物ではある。

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