螺旋階段を登るように向上発展していった国学の祖--加茂真淵


賀茂真淵本居宣長万葉集の手ほどきをしたことで有名な国学の祖。

賀茂真淵の真淵の「真」は美称で、「淵」は生まれ故郷の郡名「敷智」からきている。

国学とは、日本の古典を研究し、日本人の物の見方や考え方を明らかにし、そこに日本人の生き方を見出そうとした学問である。古言(古の言葉)を探り、古意(古の意味や心)を知り、古道(古の道理)を明らかにするというのがこの学問の方法だ。
真淵は、60代から亡くなる73歳までの期間に、「万葉考」という注釈書、「冠辞考」という語学書、「歌意考」という歌論書、「国意考」という思想書、「語意考」という語学書を書いている。
柿本人麻呂の偉大さを評価したのは真淵が最初だった。真淵は学者として「万葉」研究、歌人として「万葉」調復興を使命としていた。

この人の特色は、優れた教育者であったことだ。真淵の特徴の一つは、340名という弟子の多さとその多彩さだった。340人の門人がおり、そのうち三分の一は女性だったのも特徴である。大名の妹・夫人・母堂・侍女たちだった。それは真淵の最初の先生が女性だったこととも関係がある。エレキテルの平賀源内群書類従を書いた盲目の塙保己一雨月物語上田秋成、「古事記伝」の本居宣長平田篤胤、、、。

賀茂真淵は、賀茂神社の神官の家に生まれたが、家計が苦しく、6歳、27歳、29歳と三度も養子に出されている。ようやく37歳にして本格的に京都に遊学し、師匠の荷田春満(かだのあずままろ)に学ぶ。わずか数年で師は亡くなってしまう。
真淵は41歳で江戸に出て、居を転々としながら、筆耕、家庭教師をなどをし、辛酸をなめるが、次第に弟子もでき、生活が固まってくる。46歳「万葉集遠江歌考」、47歳「百人一首占説」が完成する。

真淵は、名君・田安宗武に召し出され、ようやく世に出る。和学御用に取りたてられ経済的、社会的安定を得る。宗武の父は8代将軍・徳川吉宗で、子が寛政の改革松平定信だ。
真淵は宗武の知遇に応え、50歳から62歳まで万葉や伊勢物語源氏物語などに関する著書をまとめた。この間、非常に多忙だった。「なす事の多かる時はいとまある人ばかりこそうらやましけれ」とも詠んでいるのが面白い。

徳川に仕えた真淵だが、その真淵の思想は本居宣長が完成させ、それが後に徳川幕府を打倒する運動に発展し明治維新が起こるのだから、皮肉である。

真淵は、本居宣長という出藍の誉れを得て、後世に名を残した。一人の志が、運命の出会いによって大きく飛躍し、世の中を変転させる。

真淵は64歳で隠居し、いよいよ著述に専念する環境が整った。
67歳、殊勲の命を受けて念願の「万葉集」と「源氏物語」の故地を訪ねる旅に出る。この旅で松坂において本居宣長に出会う。運命の出会いだ。真淵は各所で古本を蒐集していたから、宣長は古本商から情報を経て待ち構えていたのである。このとき宣長は34歳だった。宣長は真淵の指導を得て、後に34年かけて「古事記伝」を著す。
太安万侶による「古事記」の成立は712年だから、2012年の今年は1300年目にあたる。

真淵は螺旋階段を登るように向上発展していった。そして晩年の著作意欲には凄いものがある。
66歳、「語意考」。68歳、「歌意考」。69歳、「国意考」。69歳、「書意考」

日いづる国(日本)、日さかる国(中国)、日のいる国(インド)という考えで日本を論じている。

  • 万葉集を常に見よ。且つ我歌もそれに似ばやと思ひて、年月によむほどに、基調も心も、そみぬべし
  • もろこしの人にみせばやみよしののよしのの山の山桜花
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