「惜櫟荘主人--一つの岩波茂雄伝」(小林勇)

18歳で岩波書店に奉公にあがった小林勇の回想録。岩波茂雄数え歳40歳の時で、創業8年目。漱石の「こころ」が処々出版でその後わずかに30-40点の本を出した時である。

惜櫟荘主人―一つの岩波茂雄伝 (1963年)

惜櫟荘主人―一つの岩波茂雄伝 (1963年)

この本の中に、熱海の「惜櫟荘」を求めた時の事情が出ている。
二方に崖があり、坪数の割に平らなところが少なく、またその平地の真中に一本の古い櫟(くぬぎ)の木があった。背は低いが幹は太く、一種の風格をたたえていた。岩波はこの木を残しておきたいと思った。
岩波はかねてから温泉のある別荘を持ちたいという希望を持っており、また津田事件の結果投獄されるかもしれないから体を養っておこうとしたのだ。
「櫟」を岩波が引くと、やくざな木で、使い道がないというふうに出ていて、「それはちょうど俺のようだ」と面白そうにいった。
岩波はこの惜櫟荘が気に入って、しょちゅう人を招いていた。そしてここで最後を迎えるのである。
浴室、洗面所、便所、日本間、洋間そのずえてから海を眺めることができた。それぞれ違う趣を持って眺めることができるのが岩波の得意とするところだった。

この小林勇という人は岩波書店の店員であったのだが、後に岩波の次女・小百合と結婚しているから、もっともそばにいてこの「先生」の日常をよく観察した人であろう。岩波茂雄が66歳で死去するまでの小林の回想録だ。

以下、岩波茂雄の観察から。人となりがよくわかる。
今日の「岩波」ブランドを創った岩波茂雄の日常も興味深く読んだ。

  • 先生は太っていて顔の造作がみな大きかった。
  • 先生は旅行が好きで、実に気軽に出て行った。
  • 先生の生活はつつましいし、けちんぼだと思わせるようなこともあった。
  • 先生は殺生が嫌いであった。
  • 先生ははじめることが好きで熱中するが、しばらくたつと何かさめてくる癖があった、
  • 岩波は若いときからトルストイを尊敬していた
  • 岩波は、出版をはじめた時から本を作るのに、すべて最高を求めた。処女出版漱石の「こおろ」の時も、岩波が何でもよい物を使いたがるので、漱石や友人たちが心配したという。
  • 岩波は日本人が中国人のためによい仕事をしているときけば、その人々を激励せずにはいられなかった。
  • 岩波はいつも金の巻尺をポケットに入れていた。
  • 「岩波さんに本を出してもらいたいと思うときには、この本は立派な内容だが売れないだろうといいさえすればよい。岩波さんはそれをきくときっとその本を出そうという。、、」(小泉信三
  • 仕事始めの日には社員に短いが心のこもった挨拶をした。
  • 岩波は何か困難なことがあると勇気が出、元気になるといつも言っていた。

岩波新書創刊の辞。
「、、武力日本と相並んで文化日本を世界に躍進せしむべく努力せねばならぬことを痛感する。、、現代人の現代的教養を目的として岩波新書を刊行せんとする。、、、躍進日本の要求する新知識を提供し、岩波文庫の古典的知識と相俟って大国民としての教養に遺憾なきを期せんとするに外ならない。、、古今を貫く原理と東西に通ずる道念によってのみ東洋民族の先覚者としての大使命は果たされるであろう。、、」