古橋広之進(1928-2009年)は、第二次大戦敗北後の日本水泳界で世界記録を次々と打ち立て、「フジヤマのトビウオ」の異名を取り、国民に勇気を与えた人物だ。
大同毛織入試し、後に母校・日大に招かれて教授になる。日本水泳連盟会長、そして日本オリンピック委員会会長を歴任し、2009年イタリア・ローマで開かれていた世界水泳選手権に出席していて客死する。まさに水泳の申し子であった。
先日、浜松を訪問した折、古橋広之進記念浜松市総合水泳場の一階の「日本水泳の歴史資料室」には、古橋の胸像と経歴とトロフィー、そして当時の新聞の切り抜きが並んでいた。この水泳場は国際大会を開催できる施設でもあり、中学生の大会をやっていた。このプールは「ToBio」という愛称だった。もちろんトビウオとかけているのだが、鉄腕アトムがアトムになる前の名前もかけているそうだ。
古橋は終戦時に「魚になるまで泳ごう」と決意し、目標を世界一に定める。座右の銘は「泳心一路」。
1952年のヘルシンキオリンピックでは8位とるわなかった。何故だろうと疑問に思った。
自伝「力泳三十年」にそのときのいきさつと心境が書いてあった。
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また、400メートル自由形は4分33秒4の世界新記録。オリンピック優勝者のタイムは、4分41秒0。こちらも金メダルだ。
4年後のヘルシンキでは既に往年の力のなかった古橋は、期待されたが8位に終わる。
古橋は翌1949年のアメリカ・ロスアンゼルスの全米選手権に参加し、ここでも世界新記録を打ち立てて、大活躍をする。
「この全米選手権大会のころまでが頂点を目指して山を登る時期であったろう。それからしばらく頂上にいて、やがて私は山を降りる」。人生における巡りあわせ、運命であった。
オリンピックに恵まれたなかった古橋は、最後は日本のオリンピック委員会の総帥になった。
今回のロンドンオリンピックでの水泳陣の活躍の背後には、古橋広之進があったのだ。
- 国際人というのは、つまり経験の積み重ねであり、どこへ行っても自己を順応させ実力を発揮することができる、たくましい精神力なのである。
- あらゆるスポーツのなかで最も地味でつらい競技が水泳である。
- 私は水泳から「努力」「我慢」「克己」を学んだ。