諸橋轍次らの一世一代の「大漢和辞典」プロジェクト

昨年、三浦しおん「舟を編む」という小説を読んだ。
15年の歳月をかけて「大渡海」という辞書が完成したとき、壮大なプロジェクトを一緒に戦った仲間たちは、「俺たちは舟を編んだ。太古から未来へと綿々とつながるひとの魂を乗せ、豊穣なる言葉の大海をゆく舟を。」と振り返る。素晴らしい物語だった。

大漢和辞典」は諸橋轍次(1883-1982年)のライフワークとなった。
諸橋は小学校の代用教員、師範学校、そして帝大に次ぐと言われていた東京高等師範学校(嘉納治五郎校長)国語漢文科に入学し漢文を学んだ。群馬県師範の教諭から高師付属中学で教鞭をとる。その時に「もともと自分は気のきかぬいなか者だ。いそこれからは地金を出して真裸でいこう」と決心する。27歳から35歳まで思い出深い教師生活をおくる。
37歳、諸橋は文部省から2年間の中国留学を命ぜられる。経費は岩崎小弥太や渋沢栄一が面倒をみている。帰国後は、岩崎から静嘉堂文庫長を委嘱される。そして東京高師、国学院大学講師になり、5年後には大東文化学院教授、駒沢大学講師を兼任する。

大漢和辞典 全15巻セット 別巻『語彙索引』付

大漢和辞典 全15巻セット 別巻『語彙索引』付

この頃、大修館の鈴木一平(1887年-1971年)が現れて辞書編纂を依頼される。まだ信用のある出版社ではなかったが、鈴木は「一生のしごとをやってみたい」と熱意を持って諸橋を口説いた。
辞書の編集は根気と体力を要する仕事であり、諸橋自身も肺炎、肋膜炎、百日咳、白内障、そして失明同然になっていく。助手も結核などで次々に倒れている。
大修館も50名近い工員、膨大な木版代、戦時中の紙不足など、絶望的な状況の中で何とかふんばっていた。
1943年に第一巻を刊行、翌年には「朝日賞」を受賞している。
活版方式から写植(写真植字)に改めたことも推力となった。これを実行したのは「写研」の創業者・石井茂吉である。
鈴木は社運を賭して事業を完遂するために、大学在学中の長男と仙台の第二高等学校在学中の次男を退学させ、この事業に専念させている。

大漢和辞典」は1955年第一巻が配本、5年後に最終の第13巻総索引が刊行された。開始以来35年の歳月と、のべ25万8千人の労力と、9億円(時価換算)の巨費を投じた近代有数の大出版であった。多く人の縁が折り重なった層の厚さと縁の下の力持ちの出版社の志によって、長い年月をかけてこの辞典ができあがったことに感銘を受ける。
諸橋は1944年の朝日文化賞、1955年の紫綬褒章、1965年の文化勲章、勲一等瑞宝章。鈴木は1957年に菊池寛賞、勲四等瑞宝章などを受賞。高い評価をうかがうことができる。

改訂版は高弟鎌田正米山寅太郎の手によって一九八七年に完成した。諸橋は「生き抜くことに努力して、必ず見届けていきたい」と語っていたが、既に1982年に99歳で没していた。

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新村出(1876年生)は「広辞苑」の編者である。

東京帝大文科大学博言語学科に入学し、金田一京助らととも学び、首席で卒業し、この年から始まった銀時計明治天皇から授与されている。東大助教授、京大助教授、留学後教授になり学位を得ている。
「一通りは分からないことはない様にしたい」という考え方のもとに、語源に加え語史にも力を入れた。
広辞苑」は500万部売れた。「広辞苑によれば、、」とよく引用される国民的辞書となった。現在では、時代とともに進化し、CD=ROM版「広辞苑」も登場してきた。広辞苑は今も生き続けている。

広辞苑 第六版 (普通版)

広辞苑 第六版 (普通版)