「社会につながる日常の風」を歌う

 1982年の合同歌集「蘇芳」、1994年の第一歌集「風の偶然」、2002年の第二歌集「風あり今日は」、そして2012年末の「明日香風」まで、久恒啓子の歌を読み続けてきた。
 この歌人は1927年(昭和2年)生まれであるから、それぞれ52歳、66歳、75歳、そして85歳の歌集ということになる。昭和一桁世代の波乱の人生が10年毎に歌い込まれていて、その都度感銘を受けてきた。
 久恒啓子の歌では、日常詠、家族詠、職場詠、旅行詠、万葉詠、挽歌など、多面的な展開があり、それぞれに高い格調と深い味わいがある。
日常詠では、日々の細かな暮らしの一コマを丁寧に観察し、時に自分を突き放してみるおかしみのある歌も詠んでおり、日常を丁寧に生きる姿を鮮明にイメージすることができる。
家族詠では、母、姑、兄弟姉妹、夫、子どもたちと配偶者、孫、そして曾孫まで登場して、喜びや哀しみのたびに歌われる骨肉の愛情の歌に深い共感を覚える。夫の退職後に短い期間ではあったが子供たちのいるヨーロッパを中心によく旅行しているのだが、その幸せも夫の脳溢血で崩れてしまう。そして14年にわたる介護生活が始まるわけだが、この間の多くの歌には涙を誘われる。
調停委員として社会貢献活動にも10数年にわたって関わっているのだが、社会問題の吹き溜まりともいえる貧困、離婚、相続争いなどの調停という仕事は、社会の深層の問題を感じ、その中で呻吟する人間を見つめる目を磨いている。職場詠ともいえるこれらの歌にもいいものが多い。
また、この歌人の特徴の一つでもある旅行詠では、40代後半のインドから始まり、ヨーロッパ、アメリカ、中国、アジア諸国など、実に多くの国々に足跡を残していて驚かされる。そこで歌われる歌は、歴史との対話の所産である。
夫の倒れた60歳から始まった介護生活の合間を縫うようにして捻出した貴重な時間を費やした万葉歌碑の旅というライフワークは、この歌人歌人生にダイナミズムと深みを与えている。
そして母、姑、兄弟姉妹、夫たちを見送るたびに歌われる挽歌は絶唱である。「枯野原に佇ちつくす思いで」歌ったこれらの歌群によって、彼らの魂は鎮められているに違いない。

 この歌人の50代から80代までの四つの歌集を改めて並べて読んでみると、歌歴が積み重なるにつれて、歌自体の重みと深みが増していくのを強く感じることができる。それは歌の技術の進歩もあるのだが、襲ってくる生老病死の避けることのできない大きな波をまともにかぶりながら、立ち向かいそれらをて名なずけながら克服していく生き様が、神々しいほどの迫力を与えている。また一方で、吹っ切れた感じの奔放さの漂う歌にも魅力を感ずる。
 異郷の東北で長い歌人生活を送った歌誌「群山」の扇畑忠雄は、京都大学時代の恩師から「学と芸の綜合を目指して欲しい」と激励を受ける。学とは万葉集研究であり、芸とは作歌活動だった。扇畑はそれを94年の長い生涯忠実に守り抜いている。
 久恒啓子の場合も、結果的には「学と芸」という二つの分野を一つの歌の道として歩んでいるのである。万葉歌碑の旅という充実したフィールドワークに基づく「万葉集の庶民の歌」に結実した「学」と、43歳から40年以上に及ぶ作歌の「芸」とが融合しながら全体として輪郭の鮮やかな一つの像を結んでいるのは見事である。
 そして自分が体得し到達したこの高い境地を地元の公民館などを使って多くの人たちに講義し、同人誌で歌の指導を行い、また教え子たちと近隣の万葉歌碑を訪ねるツアーを企画実行している。
 教養という言葉にはいろいろな意味があるのだが、教養人とは日々自らの生き方を問い続けている人である、という考え方がある。そういう意味では、この郷土の歌人は、教養人でもあると言えるだろう。
人の偉さは人に与える影響力で決まる、と思うが、その意味では一介の主婦という境遇から始まったこの人の歩みは、気がつくと多くの人に影響を及ぼすまでになった。この歌人の歩みは高齢社会を生きる一つのモデルではないだろうか。

今回刊行された「明日香風」では、「風あり今日は」の最終歌「夕映えのごとき充足の日を願ふ夫亡きあとのいましばらくを」で歌われた充足の10年の充実ぶりが読み取れる。ようやく手にした自由を精一杯生きようとしている姿が描かれている。この歌集は、装幀と中身の双方においてこの歌人の最高峰となった。

 以上挙げたように広がりのある歌をすべて論評することはできないので、久恒啓子の歌の特色と思われる「社会詠」を少し論じてみたい。
 この歌人の歌の中には、社会、風俗、時事、などを対象とした歌が含まれており、そこに柔らかな知性と豊かで健全な常識を垣間見ることができる。
社会活動の歌、反戦の歌、政治の歌など、時代の子として、社会を吹き抜けるさまざまな風の正体を見つめるまなざしは、温かく、素直で、そして厳しい。

以下、目に留まった社会詠をいくつか挙げてみる。

「明日香風」
水仙の咲けば思ほゆ敗戦後米と替へたる晴着の模様
外つ国に侵され続けし上海の林立のビルを江は映せり
文明の一つを育みしチグリス川愚かなる戦の血にて汚すな
スーパーが倒れてしばらく後に来しコンビニもたたむこの街の角
退却を転進といひ、全滅を玉砕、敗戦を終戦と言ひき
日の丸の旗かかげあり文化の日水色シートのホームレスの屋根
身捨つるほどの祖国を歌ふチェコの人羨しと思ふ苦難を思ふ
防人も新撰組も往き来せし多摩の横山は子の通勤路
人種の壁破りて黒人オバマ氏が大統領となる空は晴るるや
自民を見捨てて民主に失望したる票数千万票いづくへゆくらむ
発明者の思ひを越えて原発ののたうちまはる怪物となりて
田子の浦に打出でて見れど富士は見えずパルプ工場の煙たちつつ

この流れを過去の歌集に追ってみる。

「風の偶然」
からし菜を潮に揉みつつ折合ひのつかざる離婚調停おもふ
或はわれにも出来得じと思ふ説得をひとにしてゐて寒し胸もと
無条件降伏せし元ドイツ兵と夫との会話宵までつづく
南より北より常に侵されて「安寧」の挨拶交わす
円高を嘆きゐる子と原油安を喜びゐる子を夜半に思ひぬ
アラビアンナイトの国と思ひしにイラク人は人質を盾にぞ使ふ

「風あり今日は」
夕餉もとらず戦艦大和を組立つる子もその父も戦争を知らず
シベリアに静脈のごとき川の見ゆ捕虜収容所はいづこにありし
この清きドナウの流のつづく国ボスニア・ヘルツエゴヴィナ紛争をやめよ
単身赴任の二男は五年目筑紫守る防人三年の任期を越えて
銃弾の降るなか学校へ行きたしと匍匐して行くパレスチナの子ら
空爆せむと威嚇する国査察に誠意みせぬ国いづれもいづれ
メソポタミア文明育てしチグリス河愚かなる戦の血にて汚すな

「蘇芳」
反安保の会終えてひとりにかえる道非武装中立の疑問湧きくる
アメリカの懐柔も威嚇も耐へてきし沖縄のひとの太き眉を見る

「晴着」「「上海」「「チグリス川」「終戦」「身捨つるほどの祖国」「元ドイツ兵」「安寧」「イラク人」「戦艦大和」「静脈」「紛争をやめよ」「ハレスチナ」「空爆」「反安保」「沖縄」などは、反戦の歌である。戦争体験者として、日本の戦後の歩みにも目を凝らして警戒しているのだが、その目は旅行で触れる世界の紛争の大地とそこで巻き込まれる庶民への同情のまなざしである。そしてメディアで毎日のように報道される世界各地の紛争にも関心を抱きながら、それを歌にしている。この歌人の視野の広さを示す歌には魅力がある。
「円高と原油安」「単身赴任」は、子どもの属す企業の盛衰と、そこで働く子どもの幸せを重ねながら歌っており、社会の風を感じさせる。
「反安保」「数千万票」は社会運動の中で感じる疑問と政治の浮遊への怒りを歌ったもので共感を覚える。「原発」の歌は、まさに社会問題を厳しく指弾する歌となっている。
「スーパー」「ホームレス」「パルプ工場」は、身近な社会の移り変わりや現代の風俗、都市化の進展などを題材としたおかしみと風刺の効いた社会詠となっている。

歌人は「明日香風」のあとがきで、「社会につながる日常の風を歌って、生きた証としたい」と述べているが、個人の内を覗くだけでなく、題材を広く社会に求め、そこから吹く風を歌っている。同時代を生きる私たちもその風を感じることができる。この社会詠は他の人にはなかなか歌えないものだと思う。
久恒啓子には「人生の旅人」として、古代から現在、そして未来に向けて吹く風を歌い続けて欲しいと願う。

この小文を書くにあたってこの歌人の歌集を眺めてみる機会を得た。
以下、ともに暮らした夫との長い年月を歌を選んで綴ってみたい。

夫はマルクスわれは歌の書かさねつつつ同じ灯明りに夜を読みつぐ(蘇芳)
職退きし夫は殻を失へる貝のごとくに傷つきやすし(蘇芳)
どうにかならむと常思ふわれ行先を憂ふる夫と四十年暮らす(風の偶然)
いづこの部分が夫のことばを奪ひしや抽象画のごとき脳の影像(風の偶然)
生きながら忘れられゆく夫なりや病みて十二年眠りてゐつ(風あり今日は)
姿勢よき夫の背骨の欲しと言ひきその骨拾へばもろくも崩る(風あり今日は)
五十年前に呉れたる夫の恋歌奔放なるわれを縛れり今も(明日香風)
「書を読むときも思はるる人」と詠みくれし夫逝きてより十年の経つ(明日香風)

 歌人の旅はまだ続く。

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