円空さん--「仏像を造り其の地神を供養するのみ」

「飛騨の円空」展が上野の国立博物館で開かれている。
荒削りの、まるで縄文の土蔵をも彷彿とさせる木彫りの像が並んでいた。
江戸前期、円空(1632-1695年)は美濃の国に生まれ、30代半ば以降30年に亘って日本各地を巡り、造仏に励んだ。近畿から北海道にまで足跡を残している。
円空が掘った仏像は12万体と言われているが、現存するものだけで5000体を超える。

「近世奇人伝」(1790年刊行)では、「円空もてるものは鉈一丁のみ。常にこれをもて仏像を刻むを所作とす。、、、法を説きて化度せられけけは、その人は今に至りて、今釈迦と名づけて余光をたふとむと聞む」とある。

民家への宿泊の御礼に、あるいは依頼に応じて神仏像を与えたという話が各所に伝わっている。
池の水が涸れた時、円空が祈りながら一千体の仏像を刻んで池深く沈めると池が満々と水をたたえた(高山市)、山の濃霧で支障が出ていると聞き円空が丸太を鉈で削り刻んで25体の菩薩を作り山頂に納めると濃霧がそれ以降降りてこなくなった(飛騨市)、飲み水が出ない土地では水を引く工夫(飛騨市)をした。そういう円空を庶民は、今釈迦、今行基といって讃えた。
円空自身は「仏像を造り其の地神を供養するのみ」と語った。

生えている木そのものに仏を見出していらない部分を削り掘り出す。旅を続けた円空には彫刻の道具がそろってはいない。だから荒削りの大胆な像になった。円空の仏像には彩色がない。

1600年前の日本書紀に出てくる悪しき怪物「両面宿儺坐像」。
憤怒の顔と慈悲の顔の二つの顔を持つ怪物として出て来るが、地元では神のようにあがめられていた。大和から倒された豪族だった。

棟方志功(1903年生れ)は「ここに俺の親父がいる」と遊行の僧・円空を語っている。

予母の命に代る 袈裟なれや 法の形は 万代へん

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