「人物記念館の旅、500館を達成して」 


知研フォーラム321号が届いた。充実している。

  • 寺島実郎「2013年世界潮流を予測する」(2月27日の講演から)
  • 武者陵司「今年中に20年続いたデフレは終わる」(世界経済は確実に成長する。世界的な株高傾向がいっそう顕著になる。日本の大復活。年内に日経平均は1万3千から4千円、2年先には1万5千から8千円。5年先、10年先には3万から4万円。為替は100円から120円。
  • 久恒啓一「人物記念館の旅、500館を達成して」(年末のミニ講演から)
  • 三原喜久子「梅棹アーカイブス--知的生産の巨大技術のなかで」
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「人物記念館の旅、500館を達成して」

「図解コミュニケーション」という分野を開拓し始めてもう20年以上経ちます。
このままこれだけをずっとやっていいのかなという感じがしていて、何かもうひとつ欲しいなと考えていました。2005年から、人物記念館巡りをしてみようと思いついて、以来、8年間ずっとやっています。
私は、昔からいつも二本足で立とうと思っていました。勤めている時期も勤務先の仕事と知研活動をやってきました。大学教員になってからもさらに一本で立たないように、バランスをとりながらやろうと思っていました。
私のライフワークの一つは「図解」ですから当然これはずっと続けなくてはならない。これは日本人の「アタマの革命」を目指す事業です。しかし、一方の人物記念館巡りは日本人の「ココロの革命」と位置づけし、いずれ心の問題の方が大事になってくるだろうという予想の下に始めました。これが人物記念館の旅です。
海外の旅は、学生時代に考えた方法があってこれにのっとってやっています。それは梅棹忠夫先生の「生態の文明史観」を確認する旅です。壁に世界の白地図を貼り、訪れた国はそれを塗りつぶしていくということをやってきました。
ところが日本の旅はどうしたらいいのか。観光地をめぐって温泉に入り飯を食って騒ぐ。そんな類いのことをいつまでも続けていいのか。何か物足りないと思っていました。そして、8年前に人物記念館をまわる旅をしていこうと考えるようになったのです。
本格的に始めたのが2005年の1月からです。郷里の大分県中津市福沢諭吉記念館を訪ねました。それから始めたわけです。

   なぜ人物記念館の旅が続いたか

これがなぜ続いたかというと、ブログという表現手段が出てきたのがきかっけでした。
当時楽天球団が仙台に来るというので、なにか楽天に関係したことから始めようと思った。ちょうどブログが始まったのがその時期です。「よし、ブログをやろう」ということで始めました。2004年9月24日から始めました。最初は2,3行で日誌を書いていました。そして1か月続いたんです。それならばもっと続けてみようということで、その後ブログは1日も休みなく書いています。自分でも不思議な感じがするんですが、明日の2012年の12月15日はいよいよ3000日連続記入の日です。今日はその前の日です。3000日というのは8年以上にわたり毎日書き続けてきたということです。とにかく書かねばいけませんから、例えば記念館に行っても翌日にはすぐ書くことを心掛けてきました。
その場でメモを取って、帰りにそこでもらった資料や入手した本などを読み込みながら、翌朝それを書くというリズムになりました。ですから本の読み方なども変わってきて、実学的に読んでいます。教養主義で読んでいるわけではありません。ブログを書くためのエキスを取ろうとして書いています。ファンである松井秀喜選手の1768試合連続出場記録というのがあります。これを抜こうと大言壮語していました。いつの間にか、これを抜きました。次に2000本安打を目安とし、ということで、だんだん増えていき、明日の時点で3000安打に並ぶ。これを越えるプロ野球の安打記録は張本の3085本、イチローの3706本ということなのでこれも近々抜けるでしょう。
人物記念館は500館を越えました。500館目は斎藤茂吉でした。現在511館ですが、500本以上、ホームランを打った人は日本の歴代9人しかいないんですね。衣笠とか、張本とか、松井とか落合とかで、511本以上打った人は、9人しか居ません。清原の525本、山本浩二536本、角田567本、野村657本、王貞治863本ということで1000本をねらうとすると、王の記録を抜くことになるのではないかと思っています。

100館越えた時に、これ何やっているんだろうかと考えました。
日本には昔から100説という言葉があります。何事も100やると一人前になるというか入門を過ぎたというか、そういう段階になる。あらゆる稽古事でそう言われます。山でも日本では百名山というのがあるように100というのは大事な数字なのです。200館を越え、300館を越えて来たときに、おまえ何やって居るんだろということになる。だけど僕にしてみたらすごく面白いんです。やめられなくなっているわけです。200館、300館になったとき、これは「巡礼」ではないかと思うようになりました。
それで巡礼ということは何かと調べるとなかなかわからない。いろいろ本を読んでいるときに、白洲正子が『西国巡礼』という本を書いているんですね。いっしょに回った免疫学者の多田富雄さんが、これは自己発見の旅だと書いていた。これを読んで腑に落ちました。いろんな人記念館で偉人に会いますね、するとかならず自分との対比でものを考えることになります。この人はこの年齢まで何をしていたが、何をテーマにしていたか、を知って自分の人生を確認するような感じがあって、まさに聖人の巡礼の旅です。

    現地に行かなければわからないことがある

この旅は、2005年から仙台で始めました。5、6,7年と。2008年4月に東京に来たのですが、仙台時代に回ったところよりも、もう東京に来てからの方が多くなりました。現在時点で511館です。最近では、山中湖にある三島由紀夫の記念館や、河口湖にあるブリキのおもちゃで有名な北原照久の記念館を訪ねました。小池邦夫、この人は絵手紙を普及した人です。絵手紙人口は今150万人ですが、徒手空拳から始めて150万人を巻き込んだ人です。岡田紅陽、この人は写真家なんですが、富士山だけを撮りつづけた。40年、50年にわたって富士山だけ撮り続けた。今の千円札の裏にある富士山はこの人の作品です。本栖湖からとった富士山。何事かを一筋にやるということは大変なことです。今日はこの話を学生にしてきました。何でもいいから続けろ、そのことがやっぱりすばらしいんだ、岡田紅陽の作品は富士山の写真がすばらしいのですが、川端康成がこう言っているんですね。古今の歴史の中で富士山が1番素晴らしい対象だ。富士山に向き合った絵描きがいた、歌読みがいた。しかし、生涯を掛けて富士山だけに立ち向かったのは人はこの人しかいないと。
 グアム島で28年間の穴倉生活を送った横井庄一の記念館が名古屋にあります。これは奥さんが無料で自宅を開放してやっています。大変素晴らしい奥さんでしたが、そこで話を聞くと本当に感動するんですね。私はあまりにもすばらしかったので1万円置いて来たんですが、向こうがまちがってうけとった感じになってお礼の手紙をいただきました。この奥さんは私の母と同い年でした。
森鴎外記念館は千駄ケ谷に新しくできました。これもなかなかいいです。仙台の亀井文蔵という人がいます。亀井文蔵は仙台の有力な会社の創業者です。子供の時からずっと蝶を追いかけている。そして蝶の博物館を作っている。あるいは徳富蘆花の記念館の一つは伊香保温泉にあります。古橋広之進は浜松です。阿久悠の記念館はお茶の水明治大学のビルの地下にあります。今日は立花隆は書棚の写真展をやっていたので、行ってきました。
粉川弘はゲーテの記念館をつくろうと一生をかけた人です。新島襄生家は安中にある。徳島ではもう一人のラフカディア・ハーンといわれるモラエスの記念館。こうしたところをずっと訪ねてきているわけです。わざわざ行く場合もありますが、講演のときをかねて行ったり、家族と一緒に旅行に行ったときにまわたりします。九州に帰った時はおふくろを連れてまわっています。今年は57館、昨年は67館でした。横綱柏戸記念館というのがあるんです。藤沢周平記念館と同じ鶴岡にありました。巨人、大鵬、卵焼きというでしょ。阪神柏戸、目玉焼きというのもあるんです。(笑い)。そういうことなどは現地に行かないとわからない。トヨタは名古屋に立派なものがありましたし、2010年は住友とか大倉とか、菊池寛実とか大田誠三とか、経営者の作った美術館を訪ねました。

     経営者は美術館を遺している

経営者は何を残すかというテーマで調べたところ、皆美術館を残した人が多い。日本の明治以降の優れた経営者は美術館を多く残しています。これはだれの影響かというと、渋沢栄一です。渋沢栄一がアメリカにつれていったのですね。そのことがずっと影響を受けている。畠山清和、原邦造、岩崎弥之介などみんな美術館を残しています。それから新撰組土方歳三、佐藤甚三郎、これは多摩の日野市です。2009年には森繁久弥の企画展、また平櫛田中の記念館に行った。2008年は、水戸の水戸光圀、2006年は新渡戸稲造柳宗悦だの、池波正太郎
こういう過程で、わかった一番重要なポイントは何かと言うと、人間の偉さとは何力かということです。

    人間の偉さを何ではかるか

どうしてこの人は偉いのだろうか。私が考えた結論は偉さとは人に与える影響力の大きさの量で決まるということです。深い影響を身近な人に与える。これは影響力が大きいか。だから偉い人なのです。同時代の人に広く影響を与える。本を書く、講演をする、有名になる、これも大きな影響を与えるわけです。サッカー選手でもものすごく大きな影響を与えていますね。たから偉い人は深く影響を与え、なおかつ広く影響を与える人です。そしてもう1つ要件があります。それは長く影響を与えるということです。つまり長生きをしてある分野で相当な人になる。長く仕事をした場合は影響が非常に大きいんですね。たとえば平櫛田中、107歳まで余人のできない仕事をした。
そういう人はたくさんいます。野田一夫先生は85歳ですが、まだ現役です。あの人は30歳でベストセラーを書いています。つまり55年にわたって第一線で活躍している偉い人です。もうひとつ。死んでしまうと、どうなるか。死んでもその影響は残るんですね。優れた業績を上げた人の影響は永く残ります。したがって後世にも影響をあたえる人が一番偉いことになります。影響力とは、広さ×深さ×長さの総量である。長さは歴史的な時間も含んでいると考えたらいいのではないか。
こうなるとだいたい分かるんです。この人の偉さはどの位かということが。私の考えでは日本の近代で一番偉いのは誰か。明治、大正、昭和を中心に活躍した人を中心に回っていますが、ときどき江戸時代とか、平安時代小野道風などが入ります。しかし小野道風くらいになるとイメージが湧きません。しかし影響は今日に至るまで知らず知らずに受け手います。彼は和様の書を開発しているのです。その一世代前の空海は唐風で書くわけですね。日本の歴史の中では、外来文化が入ったときには必ずそれに影響されて負けるのですが、その後何十年かたつとやがて日本独自のものをやろうとしてきます。明治もそうです。一時全部洋風になります。その後日本画などの復興画の最高作品が出て来ます。

    日本の近代で一番偉いのは福沢諭吉

近代では福沢諭吉一番偉い。なぜかというと福沢は当時、あの人から教えられた人は皆影響を受けています。あの人は身近な人々にたくさん影響を与えました。中津の出身ですけれども、慶応義塾をつくって中津の有能な人を皆連れて行った。明治の経営者で有名な人たちは中津出身者が多い。ほとんどの人が福沢門下で育った人です。小田急もそうですし、鐘紡もそうです。中津のような小さな町からどうしてあんなに偉い人がたくさん出たのか。福沢諭吉の影響ですね。福沢山脈といわれるくらい膨大な人脈を作ったんですね。それが今にも連綿と続いています。
福沢諭吉がなぜ一番偉くなったかというと慶應義塾をつくったからです。当時、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」と言われたそうです。福沢という文部卿は変わらない。実質的な文部卿は文部行政に長く大きな影響を与えた。慶應は今でも栄えています。だから福沢先生の影響を受けた人は物凄く多いわけです。中央で有名にならなかった人でも皆田舎に帰った。そしてそれぞれの土地の経済人になってまた影響を与えています。これほど大きな影響を与えた人は福沢諭吉以外にはない。

    後藤新平北里柴三郎。犬猿の仲から親友へ。

後藤新平は東北の水沢の出身ですが、ものすごく不良だったんです。男前で女癖が悪い不良なんですね。この人はともかく面白い人で、いろいろな逸話がいっぱいあります。
大きく言うと台湾という植民地を9年で黒字化した初めての人です。日本の植民地で台湾が黒字になったのは始めてなんです。そのあと50歳で満州に行って満鉄総裁になります。帰ってきて、大臣を歴任しますが、関東大震災では東京の帝都復興院総裁をやっています。
後藤新平のライバルがいました。それが北里柴三郎です。後藤はもともと医者なんです。北里も医者です。後藤新平須賀川の医療専門学校の出身です。北里は熊本の出身で東大の医学部の出身です。お互いに内務省に入りますが、後藤が先に入ります。お互い鼻っ柱が強くてよく喧嘩をしています。あの無教養な後藤新平、学歴ばかりで何もできない北里と互いに悪口を言い合っていた。
犬猿の仲といってよいほど互いに嫌っていた。ところが二人はドイツで一緒になる。
北里が先にコッホの研究室に行くわけですが、後藤もそのあと行きます。そこでまた喧嘩をするんですが、仲良くなるんです。無二の親友になります。北里はドイツにそのままいたら世界的な学者になったと思われますが、帰国して東大から嫌われるんです。北里は、研究所をつくりたいが、金がないし、コネもない。土地がない。後藤新平はよしと言って福沢諭吉にたのんで、福沢の土地を無償でもらうんです。それが北里研究所をつくった。北里は日本で有数の医療の改革者になります。その後、福沢が亡くなります。慶應義塾は発展しますが、医学部が無かった。医学部を作ろうとしていたが、だれも医学部を作れなかった。聞いた北里はならば自分がやりましょうと言って慶應義塾の医学部の初代学部長になります。そして11年間無給でやるんです。福沢先生の恩に報いるために11年間無給で働き基礎を作ったわけですね。その後、慶応大学は小泉信三が塾長になって出て、中興の祖になります。名塾長でした。つい最近まで小泉信三が使った机を歴代の塾長はずっと使っていました。
この前、群馬の富岡製糸工場に行きました。もともと絹織物の工場ですが、世界であれだけ建物の原型がのこっているところはありません。なぜ残ったかというと、片倉製作所が残したからです。もともと国営ではじまって三井がひきとって、横浜の原三溪が引き取って、そのあと片倉が買うんですね。片倉には手に入れたものは絶対につぶさないという経営理念がありました。だからこれをつぶさないで、残した。
ここでも渋沢栄一が富岡製糸工場の創設にかかわっていました。最初は官営でしたが、後に民営化するために三井に出す。中上川彦次郎が経営にかかわる。中津の人です。福沢諭吉の甥です。三井中興の人です。
驚いたことに、大分県中津市女工が15人、ここで働いていたことが分かりました。
富岡製糸工場が始まったのは明治5年です。近代的な工場でフランス人がやっていました。彼らが飲んでいるワインは女工の血だ。それを毎日飲んでいる、という噂がたっていました。だから誰も勤めたがりませんでした。そこで全国の武士たちが自分の娘を無理矢理行かせました。中津からは行った女性たちは福沢先生に挨拶している。何年か働いて帰っています。中津には富士紡績の工場がありました。それをつくることに力を貸したのでしょう。そのときに増田シカと中年の女性のリーダーが来ていました。中津には福沢諭吉ともうひとり増田宗太郎という人がいて、福沢諭吉の甥なんですが、福沢を殺そうとした人です。右翼的な思想の持ち主だった。この人は西南戦争の時に西郷隆盛の軍に入ります。戦死します。戦いが終わって中津隊が戻ろうとしたときに、皆戻れ、俺だけ残って死ぬと言った。なぜかというと西郷に一日接すると、死ぬしかないんだと、この人の奥さんが増田シカなんです。増田宗太郎は、自分は死ぬ人間だからと言って奥さんに手をつけなかったんですね。ですからシカは処女のままだったのではないかと言われています。その人が富岡に来ていたんですね。驚きました。
福沢諭吉大隈重信とものすごく仲がよく肝胆相照らす仲でした。福沢が先に死にますが、大隈とのやりとりがのこっています。福沢先生が亡くなりました。一切弔問は要らないと言うことでしたから、庭の椿を自ら切って贈ったというような逸話が残っています。

    日本の資本主義の基礎をつくった渋沢栄一

もう1人偉いのは渋沢栄一です。500社をつくった。日本の会社のほとんどは渋沢栄一の影響を受けているといってもいいほどです。この人は大蔵省にいました。末は大蔵大臣になってもよい人物でしたが、途中でやめるんです。官が威張って民が卑屈な状態でいかん、自分が民間の資本主義の手本を示すといって、自分でやるわけです。民間の経営者で業績を上げた人は男爵までいきましたが、渋沢栄一だけは特別で子爵になっています。そして、渋沢の偉さは財閥をつくらなかったことです。彼は大学をつくったり、学校をつくりました。また社会事業をやりました。日本のそういう方面の基礎は渋沢栄一がつくった。
もうひとつ偉いと思うのは、彼は水戸藩徳川慶喜に仕えました。慶喜が隠居しても最後までこの人に忠誠を尽くしました。明治政府から出て来いと言われても行こうとしなかった。しかし徳川慶喜から行って仕事をしろと言われて行くわけです。この人の偉さはずっと主君を守ったことです。青森県の三沢というところに、渋沢公園というのがあります。渋沢栄一の教えを受けた大公園で、そこに徳川慶喜にちなんだものがあります。渋沢家で修業をした人が営んだ大ホテルの経営者が作った公園があります。ここに慶喜の伝記がありました。それは渋沢の仕事です。一方で事業家に社会貢献をしろと言ったんです。それで名の知れた経営者は美術館を作りました。住友も三井、三菱も全部つくっています。今現在、日本はどういうことになっているからというと、日本は世界トップクラスの数の美術館がある国です。近年全国で美術館ができました。これほど大勢の国民が美術館に接する機会は世界にはないのではないか、と言われています。この基礎をつくったのが渋沢栄一です。

     スポーツ界の偉人

こういうことを話し出すとときりがありませんが、最近の話でいうと、日本はロンドンオリンピックで史上最多のメダル獲得をしました。1番ダメだったのは柔道でした。そして水泳が飛翔しました。
この例を人物記念館からみるとどうなるか。柔道は嘉納治五郎が始めました。1860年生まれです。彼は講道館を作りました。9人でほんの10畳くらいの小さな道場で始めました。この人は帝大を出て何になろうか考えるんです。総理大臣になってもたかが知れている、かけがいのない生涯を捧げるには何がいいか、それは教育である。教育を自分の生涯にかけようと決めるわけです。この人は東京高等師範学校の校長を累計25年間やるんです。嘉納の教育を25年間にわたって受けた人たちが全国に散って校長になったわけです。彼は日本最初のオリンピック委員なんです。クーベルタン男爵から直接誘われるのです。1940年には東京でオリンピックがあるはずでした。この幻のオリンピックの招致に成功するのです。これはアジア初です。ヘルシンキをおさえて36対27で勝つわけですね。しかし日中戦争が始まったので返上せざるを得なくなりました。この人はカイロの総会から帰国途上で氷川丸で亡くなる。1964年のオリンピックで男子柔道が始まります。女子はもっと遅く、1992年のバルセロナでした。嘉納治五郎の努力が東京オリンピックでの成功につながっていく。講道館は一本勝負です。高専柔道というのがあってこれは寝技なのです。日本が講道館柔道をやっていたときに、国際柔道連盟は寝技に取り組んだ。寝技に一本がやぶれたのが今回の結果です。今回は男子は銀2個、銅2個でした。惨敗といわれましたが、そうではなくて、北京ではもっと少なかったので、これは負けたのではなくて一生懸命やったんだという説もあります。山口香がそう言っていました。
水泳は古橋広之進です。1928生まれ。フジヤマのトビウオと言われました。この人も幻の人です。1948年にロンドンオリンピックがありましたが、日本は1945年に敗戦して出場の資格がなかったんです。日本は同じ日に1500と400メートルの日本選手権をやるのです。圧倒的な世界新記録を作りました。出れば完全に金メダルでした。4年後のヘルシンキに出るんですが、8位でした。下り坂になっていたから仕方がありません。幻の金メダルとなりました。この人はその後、日本水連の会長になります。そして日本オリンピック委員会の会長になります。2009年ローマで客死する。古橋の努力が今回のロンドンオリンピックでで花開いたということになります。
たった1人の人物が後世に与える影響は非常に大きいのです。人の偉さは人に与える影響力の大きさであるということがおわかりでしょう。嘉納治五郎も偉いし、古橋広之進も偉い。このように私は思っています。

     関東大震災のときに偉人たちは何歳だったか

もうひとつ最近あった事件は何かというと、3.11の大震災ですね。大震災のことを考えるときに、必ず関東大震災と比べることになります。関東大震災はマグネチュードはたいしたことはなかった。あれは相模湾で起こったのですね。東京ではないんです。
一番被害が大きかった横浜は壊滅しました。東京はほとんど火災でした。10万人が死にました。今回の3・11は死者・行方不明者で2万人です。地震の大きさにくらべたら死者は少なかった。ほとんど水害でした。水死者が92.5%。60歳以上が65%です。
関東大震災、日本は日露戦争後、昂揚期にありましたが、この大正23年から下り坂に向かいます。日本の高度成長にとどめを刺しました。
このときに誰が何歳だったかを調べました。渋沢栄一83歳。この人は東京で震災に出会いますが、埼玉に帰れと皆から言われます。だが彼は拒否するんです。こういう時こそ年寄が頑張らねばならない。いささかなりとも働くべきであると言い、後藤新平の要請で民間組織を作って救済復興を行います。
後藤新平は66歳、自分がつくった東京の改造計画ができていました。ですから復興院総裁になって東京の青写真を部を書いてしまうんです。彼は道路と公園は残るといいました。日本には何度も地震がおきる。それで公園を全部整備しなおした。現在東京の大公園は全部後藤新平がつくりました。道路は環1,環2,環3は後藤新平の案です。隅田川に橋がかかっていますね。あれは隅田川を橋の博物館にする計画でした。隅田川を下って行くと様々な橋があります。あれは博物館なのです。
徳富蘇峰は60歳でした。彼は55歳から日本の歴史を書き始めました。89歳で完成しますが、逗子で津波にあいながら書いていました。
原三溪は横浜の三溪園をつくった人ですが、この人は55歳で震災に遭います。横浜は壊滅します。市民が集まった復興の第一回会議で、「しかしながらこれは横浜の外形がこわれたのでありまして横浜の本体は厳然と存在しています、横浜市の本体は市民の精神であります。市民の元気であります。とくにここにおられる200名の諸君が健在である限り、横浜は大丈夫です。」と会長として演説をする。それで横浜は復興に動くわけです。リーダーの在り方を示しています。
柳田国男は48歳ですが、農商務省関東大震災をきっかけにやめます。やるべきことをやらねばならないといって民俗学に入っていきます。与謝野晶子は当時45歳でした。このとき源氏物語の現代語訳をやっていました。完成まじかの4000枚書いたときに震災に遭い、原稿をすべて焼失してしまいます。「14年、われがかきためし草稿の跡あるべきや学院の灰」と詠んでいます。彼女は気を取り直してまた書き始めます。そして60歳で完成させます。それが今の与謝野源氏です。武者小路実篤は38歳でした。これで168号まで続いた「白樺」が中止になります。吉川英治は31歳、勤めていた新聞社の家屋が焼失、倒産、それで作家になります。大河内伝次郎は、丹下佐膳で私の記憶に残っていますが、会社が倒産して、宗教書を読みふける。そして、俳優になる。俳優は金がもうかるからです。フイルムは消えるが庭は消えない、と言って、彼は34歳から64歳までかせいだ全財産を庭造りに傾けて死にます。それが京都の大河内山荘です。
傑作は日本画家の堀文子。90代でまだ健在です。この人は1918年生まれで関東大震災を覚えています。母もみな我を失っていた。年取ったばあやだけが冷静だった。ばあやが総大将になって冷静に大震災を乗り切った。なぜその婆やは冷静で沈着だったか。この人は安政の大地震の経験があったからでした。
すごいでしょ。安政の大地震は1855年です。マグニチュード6.9、その32時間後に南海地震が起きています、マグニチュード8.4。そして翌年安政江戸大地震です。つまりこの3つの地震は連動している可能性がある。そのばあやが、安政の大地震を知っていました。長生きをするということはこういうことです。この世は無常だ。一切なくなってしまうという人生観で自然を描き続けている。

本物の日本人になるにはどういう条件があるか、仰ぐ師匠がいるとか切磋琢磨する相手がいるとか、構想力がすばらしいとか、怒濤に仕事とか、いろいろありますが、そういうことを考えたり、その人が残したものを調べる。
現地でしかわからないことがたくさんあります。そういうことをメモしてきてその格言もいろいろな場面に使ったり、本にも使っています。団塊の世代以降の人達のはグルメとか温泉などに行っていないで、大いに旅をしよう。その旅は人物記念館の旅だ。これを強調したいと思います。
もう1つ、全国の記念館を回って思ったことは、どこも結構ガラガラです。今の日本の問題は何かというと、生き方のモデルがない。尊敬すべきモデルがいない。今の世代の人はみんなボロが出ますでしょ。ちょうど近代の、死んでしまった偉人がいいんです。二宮尊徳などもそうなのです。ものすごく偉い人です。記念館が残っている人は相当な人ですが、それ以外にも地域にもたくさん偉い人がいます。子供たちに地域の偉い人を尊敬させることは重要です。

    偉人伝の復活で、日本の精神をたたきなおす

偉人伝の復活、これが日本の精神をたたき直す一番の根本のところにあります。
地域興しでもあります。人による地域おこしです。どんな人がいたか。たとえば行政改革で言うと、宮城県には、わらじ村長として有名な鎌田三之助という人がいた。この人は町長になったとたんに町長室を上がりかまちにした。そういうモデルがあるので、アメリカやヨーロッパのまねをする必要は一切ありません。自分たちの先祖にそういう人がたくさんいます。そういう人達をもっと掘り起こさねばならないという感じを持ちました。
学生に対しては、こういう授業をやって好評を得ています。学生のアンケートをホームページに公表していますが、ものすごい影響です。今年は新しいことに挑戦してみました。ユーチューブを使いました。ユーチューブをつかっていろんな偉人の映像を見せました。今日見せたのは北原照久水木しげるの映像を見せました。正岡子規の時は「坂の上の雲」の映像です。これで秋山真之なんかも出てきます。あるいは阿久悠をやると秋元康が出てくるんです。秋元康という作詞家が尊敬するのは阿久悠なんです。阿久悠をやるとAKB48が出てくるので授業が面白くなる。司馬遼太郎の姿、岡本太郎の肉声、寺山修司をやろうとするとタモリが出てきて寺山修司のまねをする映像がある。ズーズー弁を使う。マンガ家。現在は教材としてこの新しい時代の新しいメディアが使えますし、これは非常にリアリティーがあって、いいので、これを使い始めたら去年よりも反応が抜群にいい。昨年までは私がずっとしゃべっていたんです。ところが映像と画像と組み合わせると学生が興味を持ちます。私が紹介した人以外でもいいから、自分のモデルを見つけなさい。今、それぞれがモデルを見つけていますが、たとえば宮崎駿にするとか、森鴎外にする。サッカー選手にするとか言っています。そうしてからその人達の人生を図解してもらう。それに文章をかいてもらってレポートにします。ですから私の手元には、毎年100人から200人の偉人の図がどんどん集まっています。これを使ってまた何か仕事やろうかと思っています。なぜこういうことを続けられるかというと、1つが図解コミュニケーション、1つが人物論、立志伝です。この2つを同時にやっているために、やり続けないと授業が成り立たないというしくみになっているのです。

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