宮崎駿監督作品「風立ちぬ」の主人公・零戦の堀越二郎

宮崎駿監督作品「風立ちぬ」を観た。
原作・脚本・監督の宮崎駿によればこの映画の絵コンテを描き終わったのは、東日本大震災の前日だったとのことだ。
関東大震災から始まって、第二次大戦での敗北に終わる宮崎版昭和史は、3・11とも関係していたのだ。

群馬県藤岡に生まれた主人公の堀越二郎(1903−1982年)は、世界一強く、美しかった「零戦零式艦上戦闘機の設計主務者(開発責任者)である。東京帝大工学部航空工学科を卒業し三菱内燃機関(三菱重工)に入り、名古屋航空機製作所で仕事をする。この堀越が生まれた1903年は堀越自身が自伝で語っているように奇しくもライト兄弟が初めて有人動力で空を飛んだ年である。

零戦が制式機として採用された昭和15年(1940年)は、日本の紀元2600年だったところから、末尾の零をとって零式艦上戦闘機と名付けられた。
零戦は敵の航空戦力を撃滅するには飛行基地を空襲するより、搭乗員もろとも撃墜する方が有効であることを証明した。
零戦の前に堀越が担当した九六式艦戦という傑作機は、航空本部技術部長・山本五十六少将が打ち出した航空技術自立計画の中で進めらるという幸運によってできた。それが次の零銭につながった。その零銭は格闘能力・運動性能(源田実)と速度と航続距離(柴田武雄)という二つの課題を高度の技術で解決した名機であった。「兵器ではなく工芸品」とまで評された。零戦で初陣に参加したパイロットたちは「敵機を追うとき、気をつけないと敵機の前に出すぎる」という表現で、高速と加速の良さを語っている。アメリカのパイロットたちは「ゼロに逢ったとき、ゼロには一対一の格闘戦をするな」という指令が出されていたという。
零戦の後は、雷電や烈風の設計主務者をつとめている。
大学同期の木村秀政が「綿密で粘りこくて緻密な男」と評していたように、口下手で内向的であった。戦後は国産ジェット機YS−11の基礎計画作りにも参画している。

この堀越二郎を掘辰夫の名作「風立ちぬ」の主人公として描いたのが、今回の宮崎駿版「風立ちぬ」である。
子どものためのアニメしかつくらなかったジブリが初めてつくった大人のための作品だ。
天下国家のための仕事と自分の家族との関係を両立させようとした物語となった。

堀越二郎の「零戦 その誕生と栄光の歴史」(角川文庫)では、堀越二郎が自分のことや創造性について次のように語っている。

  • 私の武器は、納得がゆくまで自分の頭で考えることだった。裏づけのない議論のための議論はきらいで、実物と実績で見てもらいたいという主義だった。、、これこそが、技術に生きる者のよろどころであることを身にしみて感得した。
  • 技術者の仕事というものは、芸術家の自由奔放な空想とはちがって、いつもきびしい現実的な条件や要請がつきまとう。しかし、その枠の中で水準の高い仕事をなしとげるためには、徹底した合理精神とともに、既成の考え方を打ち破ってゆくだけの自由な発想が必要なこともまた事実である。
  • イデアというものは、その時代の専門知識や傾向を越えた、新しい着想でなくてはならない。

宮崎駿

  • 不安な時代には楽観的であれ、楽観的な時代には不安を持て

父上・野田哲夫について、野田一夫先生は次のように語っている。堀越二郎の上司だったのだ。
父親の歴史というのは日本の航空機開発の歴史なのですね。第二次大戦では「ゼロ戦」が海軍の代表的な戦闘機であり、これは堀越二郎という非常に優れた技師が中心になって開発したものです。陸軍は糸川英夫―後に東大の教授になります―の「はやぶさ」が象徴的であります。父は堀越二郎さんの上司であり、糸川英夫さんの大学の先輩ですから、僕が子どもの頃には航空機の世界では指導的な立場にありました。とても格好がいいんですね。というのは、堀越二郎糸川英夫といえば少年の英雄みたいな人ですから、それがみんな父のそばにいるのですから。それで僕は影響を受けまして、父親を超える技術者になりたいとずっと思っていました。」

(参考資料:文芸春秋8月号「風たちぬ。宮崎駿半藤一利対談」Gakken「堀越二郎零戦」。堀越二郎零戦」。映画パンフ)

                                                                • -

風立ちぬ」「草枕」を注文。