「ある明治人の記録--会津人柴五郎の遺言」--自分史の嚆矢

「扶清滅洋」を掲げた1900年の北清事変義和団の乱)鎮圧のために英米露仏独など列強8カ国は軍を派遣する。6月21日清朝は列強に対する宣戦を布告。北京にいた外国人は籠城を余儀なくされた。2か月後の8月に連合軍は北京を占領し、西大后は光緒帝とともに脱出する。

この籠城にあたって英仏中国語に精通する北京公使館付き武官・柴五郎砲兵中佐は、実質的な指揮を担い寄り合い所帯をよくまとめ、外国人から多くの賛辞が寄せられた。

この柴五郎が維新時に故郷・会津が朝敵として嘗めた辛酸を描いた少年時代の記録が石光真人「ある明治人の記録--会津人柴五郎の遺言」(中公新書)である。

会津23万石は、1870年に3万石に減じられて下北半島斗南藩として再興を許される。今の青森県むつ市である。恐山のふもとであり、原子力船・むつ (原子力船)の旧母港として知られている。火山灰台地のやせた土地である。
しかし、この最果ての地は気候厳しく実質7千石しかなかった。このため移住した会津の人々が嘗めた辛酸は筆舌に尽くし難いものだった。
この間の事情をしたためて眠りにつこうと考えていた文書を、石光が筆者したものである。
肉親の菩提を弔うために書いたもので、自らもこの文書とともに眠りにつこうと考えていた。肉親と自分のために書いた自分史である。この人は立派な顔をしている。

会津の人々の苦難を述べたものであもあるが、一方で明治の男子のあり方を教えられる新書ともなっている。

  • 寒けれども手を懐にせず、暑けれども扇をとらず、はだぬがず。道は目上にゆずれ片寄りて通るべし。門の敷居を踏まず、中央を通るべからず。客あらばぬ奴僕はもちろん、犬猫の類にいたるまで叱ることあるべからず。おくび、くさめ、あくびなどをすべからず、退屈の体をなすべからずと、きびしく訓練されたり。
  • 挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。
  • 陸奥湾より吹きつくる北風強く部屋を吹き抜け、炉辺にありても氷点下十度十五度なり。吹きたる粥も石のごとく凍り、これを解かして啜る。
  • 官界は薩長土肥四藩の旧藩士に要職を占められて入り込む隙間なし。会津のものにとりては、東京もまた下北の火山灰地に似て不毛の地というべきか、人々日々の生活の業に疲れ、過ぎたること忘れがちなり。
  • 中国人は友としてつき合うべき国で、けっして敵に廻してはなりません。