1924年から1931年まで

1924年から1931年までの若槻礼次郎内閣、田中義一内閣、浜口雄幸内閣の時代をまとめると、、。

「 中国では1924年孫文国共合作の方針を打ち出し国民政府を樹立する。翌年孫文は「革命いまだ成らず」との遺言を残して死去する。後継者の蒋介石共産党の支援を受けて1926年に全国統一を視野に北伐を開始し、各地の軍閥を破り広州に広東政府を樹立した。
 日本国内では、幣原喜重郎外相を擁する憲政会の若槻礼次郎内閣は、対中国不干渉政策をとった。こういった外交は軍部急進派、野党立憲政友会国家主義団体、実業家などから軟弱外交との厳しい批判を受けた。
1923年に発生した関東大震災後の震災手形をめぐって銀行の取り付け騒ぎが起こり、銀行の休業が続出するなど、金融恐慌が起こる。鈴木商店不良債権救済の緊急勅令が否決され、若槻内閣は総辞職に追い込まれた。
後を襲った立憲政友会田中義一内閣はモラトリアム(支払猶予令)等によって金融恐慌を乗り切った。
 田中内閣は1928年に不戦条約を結ぶなど欧米諸国とは協調路線をとった。また、普通選挙を実施したが、共産党の動きを恐れ、選挙後に治安維持法を発動し共産党関係者を検挙した。これを3・15事件と呼ぶ。
 中国では反共クーデターで蒋介石が南京に国民政府を樹立。この動きに脅威を感じた田中内閣は日本人居留民保護を理由に1927−28年に3回にわたって山東出兵を行い、満州張作霖と結んだ。しだいに張に不満を抱くようになった日本軍(広東軍)は張を爆殺した。これが満州某重大事件である。しかし息子の張学良は国民政府と結んでしまう。
 この事件が内外の批判を受けて田中内閣は退陣し、次に立憲民政党浜口雄幸内閣が誕生する。井上準之助蔵相は世界恐慌の中で金輸出を解禁し、経済界は混乱し昭和恐慌につながっていった。この不況を乗り切るために1931年に重要産業統制法を制定。これが1930年代後半の統制経済への道を拓いていく。
 一方で、外交面では幣原外交に戻ろうとし、1930年にはロンドン海軍軍縮条約を調印した。しかしこれは天皇統帥権干犯であると軍部の攻撃にあう。そしてついに浜口首相は、東京駅で右翼青年に狙撃されて翌年に死亡するにいたる。
 このようして協調外交路線はゆきづまってしまった。」