伊丹十三記念館(松山)--偉い人になるということ

松山の伊丹十三記念館は、中庭のあるおしゃれな黒い色の外観だ。
外の庭の車庫に愛車のベントレーがおさまっている。
中に入ると中庭の光と緑がまぶしい。

まず、館長の宮本信子の挨拶のビデオが出迎えてくれる。妻からみても変わったユニークな人だったということがわかる。それが魅力だというような内容だった。

伊丹十三の本

伊丹十三の本

本名は池内岳彦。1933年生れ。
資料の配置は、伊丹の多面的な活動を紹介するという考え方だ。
エッセイスト。料理通。乗り物マニア。テレビマン。精神雲関啓蒙家。映画監督。
この並びのように、多様な興味と薀蓄と経験を経て、最終的には天職であった映画監督につながっていくというストーリーである。
映画監督として初めての作品は湯河原の自宅を舞台にした1984年の「お葬式」だ。その時、伊丹は51歳。
その後、映画監督として伊丹はヒット作品を連発していく。
タンポポ」(1985年)「マルサの女」(1987年)「マルサの女2」(1988年)「あげまん」(1990年)「ミンボーの女」(1992年)「大病人」(1993年)「静かな生活」(1995年)「スーパーの女」(1996年)「マルタイの女」(1997年)。

この映画監督という職業は、父の後を継いだという形になる。父・伊丹万作(1900−1946年)は有名な人だった。
この人の本名は池内義豊。1928年から毎年数本の映画をつくりつづけた映画の人だった。また文筆の人でもあった。
代表作の一つである「無法松の一生」を観て、息子は「この映画は父の私に宛てた手紙であった!」ことを発見する。無法松こそ父の自分に対するメッセージであったことがわかり、十三はいつしか坐りなおしてこの映画を観たという。

伊丹十三は、最初は伊丹一三という名前で仕事をしていた。それをある時から十三にかえている。その理由は、マイナス(一)をプラス(十)に変えるということであった。

この記念館は、伊丹十三伊丹万作の両方の記念館になっている。映画監督となった父と息子の連なった記念館だ。

伊丹十三
「昔、子供のときにあこがれた偉い人になるということを今こそ本当の意味でやりとげなくてはならないのだ。」
息子の万平(2歳)へ
「自分に出会わぬ者は決して他人にも出会わぬことをお前に告げておこう。」

「ソフトを被ることによって、僕はある意味で親父と同一化しているかも知れません。」

映画監督として、伊丹十三伊丹万作に出会い、そして自分に出会ったのだ。

伊丹の死後、「伊丹十三賞」という賞ができている。
「これはネ、たいしたもんだと唸りましたね」とつぶやきながらひざをたたいたであろう人と作品に贈られる。
第5回は池上彰が受賞して、近々その講演会も開かれる。

女たちよ! (新潮文庫)

女たちよ! (新潮文庫)

一世を風靡した名エッセイ「女たちよ!」を読んだが、あらゆことを知っており、そして実際に実行した上で、ゆるやかに断定するという筆致の冴はただ者ではない。冒頭の前書きが凄い。

寿司屋での作法は山口瞳にならった。包丁の持ち方は辻留にならった。俎板への向かい方は築地の田村にならった。パイプ煙草に火をつけるライターのことは白洲春正にならった。物を食べる時に音をたてないことは石川淳。箸の使い方は子母澤寛。刺身とわさびの関係は小林勇。レモンの割り方は福田蘭堂。、、、。
「がしかし、これらはすべて人から教わったことばかりだ。私自身は---ほとんどまったく無内容な、空っぽの容れ物にすぎない。」