杉原千畝。根井三郎。小辻節三。6千人の命を救ったリレー

「命のビザ」の杉原千畝の物語。

1940年7月29日--9月5日。リトアニア領事代理・杉原千畝、ユダヤ難民へのビザ発給を決断し6000人に日本への渡航ビザを発給。杉原40歳。本省の訓令に背き職務規定違反。「私たちはどうなってもいいから、助けましょう」
1940年8月--      ユダヤ難民、シベリア鉄道で2週間かけて極東のウラジオストックへ。
1941年2月--6月    在ウラジオストック総領事代理・根井三郎、独断でユダヤ難民の渡航を認める。
 ハルピン学院(後藤新平校長)で杉原の2年後輩。「自治三訣」。 駐ソ連大使・建部川美次「実害なき者は従来通り査証を与えるよう再審議すべし」「新取扱決定は実情に即せざるもの」
1941年        ユダヤ難民、日本の敦賀に到着。温かくもてなされる。「朝日湯」は休みにして無料で風呂に入れた。「ツルガが天国に見えた」。人道の港・敦賀ムゼウム「ユダヤ人難民コーナー」。
1941年        ユダヤ難民、神戸へ。10日間しか滞在を許されなかったが、ユダヤ文化研究者・小辻節三が政府・自治体に働きかけ、ビザの延長を許可を得る。小辻は満鉄総裁・松岡洋介に招かれて総裁顧問をしていた縁で、松岡外務大臣に会う。「滞在期間の延長は自治体に権限がある」と示唆。松岡洋右外務大臣の訓電は暗号電報ではなく普通電報にしていた。松岡「我が国に住む限り、一切の心配は無用」と宣言。
1941年秋       ユダヤ難民が出国。上海やアメリカへ。

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41歳:プロイセンの在ケーニヒスベルク日本総領事館勤務。ルーマニアの在ブカレスト日本公使館勤務。
45歳:捕虜収容所へ連行される。
46歳:帰国の途につく。
47歳:ナホトカ、4月博多。6月外務省退官。世界平和建設団事務局に就職。貿易会社・川上貿易モスクワ所長。
68歳(1968年):元ユダヤ難民と再会。
69歳(1969年):イスラエルで宗教大臣より勲章を受ける。
85歳(1985年):イスラエルより「諸国民の中の正義の人章」受賞。この勲章には「一人の命を救う者が全世界を救う」と記されている。
1990年:杉原幸子「6千人の命のビザ」を発表。1991年にバルト三国の再独立で関心が高まった。
86歳(1986年):永眠。
2000年:生誕100年。河野洋平外務大臣が名誉回復措置。
手嶋龍一「スギハラダラー」。インテリジェンス・オフィサーとしての杉原。

杉原が晩年に書いた「決断 外交官の回想」。

  • 全世界に隠然たる勢力を有するユダヤ民族から、永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビーザを拒否してもかまわないとでもいうのか? それが果たして国益に叶うことだというのか?」
  • 三世代の3万6千人を救ったことになる。それから15年、銀河の星の数を数えるような数字になっているだろう。
  • 2011年3月11日の東日本大震災発生で、イスラエルのネタニヤフ首相が援助。コート1万着、毛布6千枚、手袋8千、簡易トイレ150を届ける。

    (資料:白石仁章「諜報の天才 杉原千畝」(新潮選書)。「歴史街道」(2013.11))

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独立・開業の「アントレ」秋号。
「第二の人生が見える「じぶん整理」シート」にコメントと写真。

アントレ 2013年 11月号 [雑誌]

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