「中谷宇吉郎の森羅万象展」-関係をさぐるのが科学である

大学での会議とインターゼミの間の空き時間を使って、京橋のLIXILギャラリーで開催中の「中谷宇吉郎の森羅万象展」を観てきた。
このギャラリーの隣はセンスのいい書店がある。またこのギャラリーははいい企画展をする。
中谷宇吉郎は著名な雪の研究家。杉原千畝と同じ1900年生まれだから年齢が数えやすい。
「雪は天から送られた手紙」というロマンティックな言葉を残している。
この人は世界初の人工雪を製造した人だ。雪氷学の基礎を築いた。

東大で22歳上の寺田寅彦(1878−1935年)に師事する。23歳でここで理論物理学から実験物理学に進路を変更する。二人の関係は、夏目漱石寺田寅彦との関係に似ている。寺田の名言「天災を忘れた頃にやってくる」は人口に膾炙している。
「科学で大切なことは役に立つことだ」との寺田寅彦の教えにしたがって、問題解決型の研究に従事した一生だった。
基礎研究というのは、決して迂遠な道ではなく、むしろ最も正確な近道だと言っている。28歳でロンドン大学キングスカレッジに留学するが、この時、学問を楽しむこととと実際的であることを学んだ。

左:中谷宇吉郎  右:寺田寅彦 
東大卒業後は、理化学研究所で寺田の助手になり、火花の研究を行う。
留学後は、北大で師の教え「風土に根ざした研究」を志す。
36歳で世界初の人工雪を製造。

雪は上層で中心のコアができて、それが重力で落ちてきながら次第に低層の気象条件の影響を受けて外へ成長する。
雪の結晶は実に美しい。そして気象条件によってあらゆるタイプの結晶が生まれる。この神秘の解明に中谷は魅せられたのだろう。宝石のよう。さまざまな形。蝶々。水晶のよう。おとぎの国の宝物のよう、、、。
十勝岳グリーンランドニセコアンヌプリ大雪山、ハワイ島マウナロア山頂、北極海、アラスカ、など寒冷地が仕事場だった。

30歳北大助教授。31歳京大から博士号。32歳北大教授。
中谷は、さまざまな研究所に関与している。北大常時低温研究所。北大低温科学研究所。ニセコアンヌプリ山頂着氷観測所。農業物理研究所。雪氷永久凍土研究所。運輸省技術研究所。

36歳の時に体調を崩し暖かい伊豆で2年間の療養生活を送っている。主治医は武見太郎だった。このとき、随筆、油絵、墨絵に親しんでいる。とくに随筆は38歳で出した「冬の華」や「雪」(岩波新書)など評価が高かった。このあたりも師匠の寺田寅彦ゆずりだった。

49歳で中谷研究室プロダクションを設立し、科学映画をつくる。これが発展して後に岩波映画製作所につながっていく。

福岡伸一が「中谷宇吉郎によせて」という文章を書いている。それによると、中谷は「なにかをするまえに、ちょっと考えてみること」、それが科学的であるということだと言っている。
「すべての事物を、ものと見て、そのものの本体、およびその間にある関係をさぐるのが、科学である」ともいう。やはり関係を考えることなのだ。

驚いたことに中谷宇吉郎の親友の高野与作の三女が岩波ホール高野悦子総支配人である。
宇吉郎と同じく四高から東大で一緒だった与作は満鉄の責任者になり、戦後は経済安定本部の建設局長となって戦後復興に重要な役割を担った人物である。

2000年に朝日新聞が「この1000年の優れた日本の科学者」を問うた読者投票を行ったところ、中谷宇吉郎は6位。
読売新聞の「読者が選ぶ21世紀に伝える「あの一冊」」の投票では、「雪」が「日本の名著」の3位に入っている。

石川県の加賀市にある「雪の科学館」は訪れる機会がまだない。

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続いて、ブリジストン美術館の「都市の印象派 カイユボット展」。
画家。印象派のモネ・ルノワールセザンヌなどのコレクター。スポンサー。自画像がいい。

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