「興福寺仏頭」発見者・黒田の物語。百田尚樹「リング」

昨日訪れた東京芸大美術館の「興福寺仏頭展」が頭にあったのだが、今朝の日経新聞文化欄はその仏頭を76年前に500年ぶりに発見した黒田のり義の妻の回想だった。妻の康子さんは98歳。

1937年に興福寺は東金堂の解体修理を行っていた。奈良県の古建築保存業務の担当だった黒田は、本尊・薬師如来の後ろの板壁をはがした。台座の下の小空間に仏頭があった。黒田は建築史が専門で古美術にも明るかった。緊張が走った。検分を明日にして傍らで同僚と一晩を過ごす。酒を飲んでも興奮で震えが止まらなかった。

685年にこの仏頭が造られ山田寺にあった。山田寺は蘇我氏傍系の石川麻呂の氏寺である。大化の改新後、右大臣に昇った石川麻呂は讒言で謀反の疑いをもたれ自害した。無実であった。その石川麻呂の菩提を弔うために制作されたのがこの如来である。
1180年、源平の争乱で藤原氏の氏寺・興福寺は焼失。再建にかかったが、東金堂に納めるべき本尊ができないので、僧兵が山田寺から持ち出した。
1187年、正式に安置。
1411年、火災で胴体が焼失。新たな本尊が造られ、残った仏頭は保存されたが人々の記憶から薄れていった。
1937年、500年以上経って、黒田が発見。
1945年、黒田、フィリピンで戦死。31歳。

この黒田のことが仏頭展で買った記念パンフに載っている。黒田は奈良県古社寺課所属の技師で、翌日運び出されたときに「あたらめてしみじみと眺めた時の興奮は、今も生々しい」と記している。

青年のような若々しさ、古代的で品格のあるおおらかな表情、視線は遠方の彼方に向けられ遠い理想をめざすような強い意志が感じとれる、、、、。

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百田尚樹「リング」を読了。

リング

リング

ファイティング原田を軸とした戦後日本のプロボクシングの歴史をたどった物語。
百田尚樹らしい映像的な描写の筆力で一気に読ませる。
世界チャンピオン・ポーンキングピッチからタイトルを奪った試合は1962年。テレビで観た記憶がある。
ピストン堀口白井義男、郡司信夫、ペレス、笹崎たけし、斎藤清作(たこ八郎)、海老原博幸、矢尾板貞雄、米倉健志、関光徳、エデル・ジョフレ、ジョー・メデル、柴田国明、西条正三、、、など思い出の名選手が次々と登場する圧巻の絵巻だ。

ファイティング原田の語録。

  • 俺は素質のある方じゃなかった。だから人の二倍三倍やらないとダメだったんだ。
  • 俺ほど練習した者はいないと思うよ。それに練習が好きだったからね。
  • 努力はかならず報われる。練習は裏切らない。そのことを証明するためにも、何が何でも勝ちたかった。
  • 他のことはいつでもできる。でも、ボクシングは今しかできない。それに世界チャンピオンとリングで戦える人生なんて、他に比べることができないじゃないか。

モハメド・アリ

  • 死に物狂いの練習に耐えぬいてきた者こそが、厳しい互角の勝負において、心の底まで降りて行って、勝利に必要な1オンスの勇気を持ってくることができる。

1943年生まれの原田は1960年にプロデビューし、フライ級、バンタム級の世界チャンピオンになり、フェザー級の世界タイトルマッチで誤審により敗戦となる。11階級しかない時代に二階級を制覇、疑惑の判定がなければ三階級制覇であった。
原田は1970年に26歳9月で引退。矢尾板とのエキシビジョンマッチが終わり、リング上の原田にテン・カウントが鳴らされて会場は静まり返った。
原田は日本の1960年代を駆け抜けた天才だった。
解説者となり、翌年ファイティング原田ボクシングジムを開設。29歳で結婚。
1938年には日本人ボクサーとして初で唯一のアメリカボウシング殿堂入り。
45歳、日本プロボクシング協会会長となり2010年5月まで7期21年その座にあった。

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同時代史
・アメリカゴルフツアー初戦。松山3位、遼21位。二人の活躍が楽しみだ。