「古径と土牛」--山種美術館

山種美術館の「古径と土牛」展。
小林古径(1883-1957年)。

新潟生まれ。4歳で母死去、13歳父死去。16歳、梶田半古に入門し、古径の号をもらう。17歳から絵画展に出展し一等褒状を連続して獲得。22歳、奥村土牛と出会う。24歳、梶田半古の病気により塾の中心となるい。25歳、岡倉天心の訪問を受ける。28歳、天心の配慮で原三渓から経済的援助を受ける。31歳、院展同人。35歳、日本美術員評議員。52歳、帝国美術員会員。54歳、新文転審査委員。59歳、天心偉績顕彰会理事。61歳、東京美術学校教授。66歳、東京芸大教授。67歳、文化勲章。68歳、文化功労者。74歳、永眠。

天心「モットモット高い所、結局信貴山縁起位まで遡って標準を置いて見よ」と指導を受け、「絵というものの大義」を教えられて、一生の信条となった。
師匠の梶田半古は「画家の思想と気品がもっとも重要である」と考えていた。画品。作品には描きての人格の高さが現れると説いていた。

  • 音のする盆をかくのは大変だ。写実というのも、そこまで行かなければ本当の写実ではない。

弟弟子の奥村土牛(1889−1990年)の古径評。
「先生の絵を拝見するとわたしは先生と対座しているような気がします」「古径先生の美しい御人格に打たれて、こんなにも清らかな世界があるものかと驚いた感激は忘れることができません」「先生ほどの高潔な人がこの世に何人いるだろうか」「ご自分に厳しく、人に優しい方であった」
古径は「ちょっとの間でも、絵の事から頭脳をはなしてはダメだ」と弟弟子の奥村土牛に語っている。

屏風に描かれた「紫苑紅蜀葵」、「三宝柑」が印象に残った。

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奥村土牛

1889年生まれ。16歳、梶田半古に入門。23歳、逓信省為替貯金局統計課に勤務。5年間。28歳、父より土牛の号をもらう。31歳、2年間小林古径の画室に住みこむ。34歳、関東大震災で自宅消失。38歳、院展に初入選。40歳、古径の媒酌により結婚。43歳、日本美術員同人。55歳、東京美術学校講師。59歳、武蔵野美大講師。60歳、女子美術大学教授。62歳、武蔵野美大教授。64歳、多摩美大教授。70歳、日本美術院理事。73歳文化勲章。89歳、日本美術院理事長。101歳、日本美術院名誉理事長、長野県に奥村土牛記念美術館。101歳で永眠。

土牛の作品は多摩大にも飾ってあるのを発見。