小栗上野介と縁の深い高崎市倉渕の東善寺を訪問

品川での会議を終えて、長野新幹線安中榛名へ。そこからタクシーで、東善寺に向かう。
幕末の徳川幕府勝海舟と並んでニ傑と称された小栗上野介(1827-1868年)の墓と資料館がある寺である。
庭に横須賀から贈られた胸像が建っている。この胸像はやはり朝倉文夫の作だった。
親友であった栗本瀬兵衛安芸守(1822-1897年)の胸像も並んでいる。栗本は横須賀製鉄所の功労者である。欧州アルプスを登山した初の日本人。維新後は報知新聞主筆。この像は門人だった犬養毅がつくらせたもの。
裏の小山には小栗上野介と養子で同じく惨殺された21歳の小栗又一の供養墓がある。
小栗の戒名は、陽壽院殿法岳浄性居士。
雪の階段をかなり登ったところに二人の本墓があり、右手には3人の家臣の墓もある。

遺品館には使った駕籠があった。外には記念植樹で、作家の井伏鱒二が昭和53年6月10日の植樹したとある。

小栗家は神田駿河台に屋敷があった。明治大学の向かいで現在のYMCAのある場所だ。そこには小栗の像がある。
9歳で小栗は安積昆斎(あさかごんざい)の塾に入る。安積は佐藤一斎の学僕から苦労して最初の塾を小栗邸長屋を借りて開きてりた。その後、昌平校の教授となる。海防と貿易を説いた。ペリー来航時の国書の翻訳と返事を代作した。門人のリストをみたが、綺羅星のように人材が並んでいる。秋月悌二郎、岩崎弥太郎、栗本瀬兵衛、中村正直清河八郎吉田松陰、福地源一郎、高杉晋作、など2282人。

アメリカへの使節の目付として、咸臨丸を従えて、ポウハンター号で江戸を出てハワイを経てアメリカ西海岸サンフランシスコに渡り、パナマ。船を乗り換えてカリブ界を越えてワシントン。ニューヨークから大西洋を越えてアフリカ、インド洋、インドネシア、香港。そして江戸へ、という世界一周を果たしている。
ハワイではカメハメハ4世国王夫妻と会っている。正使の村垣淡路守のざれ歌「ご亭主はタスキ掛けなりおくさんは大肌脱ぎて珍客に会う」。

アメリカではリンカーン大統領の前任のブキャナン大統領(1857年-1861年在任)に歓待を受ける。
ワシントン上陸時に、「日本人は、列を作って歩ける!」といい、文化の度合いが高いと判断された。
1860年6月22日のニューヨークタイムズは「、、我が国と日本との通商が十分に開放されれば、これらの物品はそっくりまねされて改良されてわが国に戻ってくるに違いない」という観察をしている。
6月30日のニューヨークタイムズ「小栗豊後守は、アメリアの文明の利器を日本に導入することに大賛成だといわれている」と記している。

アメリカでは精力的に見物している。
砂糖精製向上、国務省、海軍造船所、特許局、議事堂、病院、天文台、測量局、ソニアン博物館、、。
日本と欧米の差は、鉄を大量に使うことにあるとみた。「日本を鉄の国に改革したい」

帰国後、小栗は日本最初の株式会社をつくる。「兵庫商社」。清水喜助に築地ホテルを建てさせる。

富岡製糸場は、横須賀造船所の妹。横須賀造船所の建築技師・フランス人のバスティアンが設計図を書いた。横須賀からはさまざまな補助器具を提供してもらっている。
中島飛行機製作所(現在のスバル・富士重工)は、横須賀造船所の弟。横須賀海軍工廠造兵部飛行機製造の幹部だった中島がは、「国では技術革新んに間に合わない。民間でやるのがいい」「制作費の安い飛行機をつくり空母で運んで闘うべきだ」。

司馬遼太郎
「横須賀造船所は、かつて日本近代工学のいっさいの源泉であった」(街道をゆく

東善寺の本堂には小栗に関する資料が大量に並んでいた。

帰りに本を数冊買ったら、サインをしてくれた。
その人はこの寺の住職の村上泰賢さん本人だった。
以下、買った本。
村上泰賢編「小栗忠順のすべて」
村上泰賢編著「幕末遣米使節 小栗忠順 従者の記録」
村上泰賢「忘れられた悲劇の幕臣 小栗上野介
小栗上野介」(市川光一・村上泰賢・小板橋良平)