岸田吟香、岸田劉生、岸田麗子。

世田谷美術館

岸田吟香岸田劉生、岸田麗子という三代の芸術家一家の歴史を追う企画展。
今回は、吟香に興味あり、訪れた。
1833年岡山県うまれ。昌平坂学問所で学んだ尊皇攘夷の志士。
1850年代は、ヘボンの和英辞書編纂を手伝う。日本発の民間新聞を刊行。
1870年代。東京日日新聞主筆。日本最初の従軍記者として台湾取材。明治天皇巡行に随行。目薬を扱う楽善堂を創業。
1880年代。訓盲院を開校。
1890年代。
 中国、朝鮮の地図を編集。日本薬学会や全国薬事業組合の要職。
1905年、72歳で没。

なんと目まぐるしい人生か。
左官、泥工、八百屋の荷担、湯屋の三助、芸者の箱丁、妓楼の主人、茶飯屋の亭主、骨董屋まがいの商売、、と「ままよの銀次」となる。銀公が変じて吟香となった。横浜で企業家となり、江戸横浜の定期航路、北海道函館での氷製造販売、越後での石油採掘、などを経て、ヘボン直伝の液体目薬の製造販売で成功。
180センチ、90キロの巨漢。
絵を描き、書もうまく、実業もできる。わが国発といわれる形容がつく事業が多いのが特徴だ。「維新諸行 翁実唱始」の人。
「本格的和英辞書」「博覧会批評」「従軍記者」「記者としての天皇巡行随行」「芸術家への海外留学支援」「中国地誌図」「東亜同文書院」「盲学校」、、、。すべて初物である。

画家の高橋由一、写真の下岡蓮杖、浮世絵画家の小林清親田崎草雲など友人も多い。
東京日日新聞では、本名福地源一郎の桜痴の論説と吟香の雑報が二枚看板だった。才能を撒き散らしたところなど、この二人はよく似ている。時勢に応じて立ち位置を少しづつ変化させるなど、先見の明と巧みな処世術だった。

劉生は15人兄弟の第9子の四男。画家として著名。
この人も何をやっても一流だった。落語もうまく、打ち込んだら真打ちという腕前。
1851年生まれで1929年に38歳で没。

画家、女優、、、、。
岸田麗子は、1914年生まれで1962年に48歳で没。


「劉生日記」を購入し、読んでいるが、面白い。