古川勝三「台湾を愛した日本人--土木技師・八田與一の生涯」

古川勝三「台湾を愛した日本人--土木技師・八田與一の生涯」(創風出版)を読了。
著者は1944年生まれ。愛媛大卒業後、教職の道を歩む。36歳から3年間台湾省高雄日本人学校に勤務。
このとき八田與一を知る。47歳、「台湾を愛した日本人」で土木学会著作賞を受賞。松山市の中学校校長を歴任した後、定年退職。今は「台湾を愛した日本人?-蓬莱米の父・磯永吉  蓬莱米の母・末永仁を取材中。
一つの峰を越えて、次のテーマが浮上した人の軌跡がここにある。

台湾を愛した日本人(改訂版) -土木技師 八田與一の生涯-

台湾を愛した日本人(改訂版) -土木技師 八田與一の生涯-

台湾はもともと無主の土地であった。

  • オランダ人が日本、中国、バタビアの中継貿易基地として、1624年にゼーランド城とプロビデンジャ城を建設し、以後37年間の植民地支配を行う。
  • 1661年、鄭成功清朝打倒の基地として台湾に侵攻しオランダ人を降伏させる。子孫による支配は22年間。
  • 清朝は212年間にわたり台湾を支配する。
  • 1894年、日清戦争で勝利した日本は下関条約により台湾とぼうこ諸島を譲り受け、日本初の植民地となる。
  • 1945年、第二次大戦で日本敗北。中国共産党から追われたた国民党が台湾に上陸し中華民国台湾省となる。

日本植民地時代の台湾は、当初は土匪との戦いに明け暮れたが、第4代総督・児玉源太郎後藤新平民政長官時代に、大成功をおさめ、以後台湾は急速に近代化する。
その台湾近代化の過程での一人の若い人物が、大きな仕事をする。それが東洋一のダムをつくった八田與一である。
このダムによって洪水と干ばつと塩害の三重苦にさいなまれていた不毛の大地嘉南平原は緑の沃地に変わり、台湾最大の穀倉地帯となった。香川県に匹敵する感慨面積である。

この工事は1920年に開始され、1930年に完了する。10年の歳月を要した。総工費は現在の価値で5000億円以上。
計画時32歳だった八田與一はこのとき44歳になっていた。
農民の収入が増え、生活が豊かになり、粗末な家がレンガ造りになるなど衣食住は急速に改善された・

人造湖・珊瑚潭を見下ろす丘に八田與一銅像が建っている。物思いにふける座った像である。
中華民国が支配することになった台湾では、日本人の銅像の類は撤去されたが、この八田與一だけはかろうじて残った。今残る唯一の日本人の銅像である。
八田與一は1942年にフィリピンに向かう途中アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け、東シナ海で死亡。享年56歳。その3年後、妻の外代樹がダムの放水路に投身自殺。夫婦の墓がある。

中国に「飲水思源」という言葉がある。水を飲む時には井戸を掘った人のことを思い感謝して飲むという意味だ。
まさに台湾に人にとって、八田與一は井戸を掘った人となった。

  • 人類のためになる仕事をし、後の世の人々に多くの恩恵をもたらすような仕事をした。
  • 大きな仕事は、30代か40代までに行わなくては駄目だ。
  • 過去の文献や事例を徹底的に調べ上げ、それをもとに現場に合う合理的な方法を組み立てていく。

1998年、台湾の歴史教科書「認識台湾」に八田技師が取り上げられる
2000年、烏山頭ダムに八田技師記念室が開館
2001年、「台湾を愛した日本人」の台湾語版が出版
2004年、金沢市ふるさと偉人館に常設展示コーナー

3・11東日本大震災の時に、台湾からは200億円を超える義捐金が届いた。この額は世界最大だった。
その陰には、八田與一のような素晴らしい日本人の貢献の蓄積の歴史があったのだ。