「池田勇人 その生と死」(伊藤昌哉)--安保からオリンピックまで

伊藤昌哉「池田勇人 その生と死」(至誠堂)を読了。
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この本は、本来「安保からオリンピックまで 在職4年4か月」という題で池田勇人総理の回想録として出版されるという約束になっていた。
一度も約束を破ったことのない池田総理ではあったが、ガンで退陣を余儀なくされ、1年を経たすずして亡くなった。
秘書として仕えた著書の伊藤昌哉は、ずっとつけてきた日記をもとに、この書を完成させた。
伊藤昌哉は、後には政治評論家として時折テレビで鋭い情勢分析をする人として記憶している。
伊藤は池田総理が発するすべての文章を書くようになった。
もともとは、西日本新聞政治記者だったこともあり、池田勇人の総理時代の様子があますところなく描かれている出色の本である。

池田勇人(1899−1965年)は1960年に安保改定を断行した岸信介首相の後を受けて政権を担い、1969年の東京オリンピクまで長い期間政権を担当した。
安保改定による国内の対立という政治の季節を、「所得倍増論」で経済の季節にテーマを大転換した。事実、日本は池田の後継となった佐藤内閣の時代を含め、高度成長の黄金の60年代を迎えたのである。テレビで「寛容と忍耐」を政治姿勢とする池田総理のダミ声はよく覚えている。
伊藤によれば、池田はものごとを関連させてみるがあった。関連させてみる力に伊藤は「アソシエート」という英語のカタカナのふり仮名をつけている。数字を関連付けていく能力があったのだろう。

池田はよく勉強した。そして生活は簡素にだんだんなった。
毎日全力投球で仕事に没頭し、週末は箱根の別荘で庭と石に没頭し、気分の転換をはかった。
熊本の五高で教えていた夏目漱石の「育英の基本は師弟の和熟にあり」という手紙の文句に心を動かされていたそうだ。

  • 池田は総理在職中、一度も待合にはいかなかった。ゴルフにもいかなかった。
  • 「自由陣営の国ぐにから親しまれ、共産圏職からは畏敬される国となることが望ましい」
  • 「憎しみとたたかいは破壊への道」であり、「寛容と忍耐をもって、話し合いを通じて解決するという、正しい民主主義の慣行」の確立を強調した。
  • 「私心をなくして、薄氷を踏む思いでやって、なおかつたりない。そのたりないところは偉大なものにおぎなってもらうよりしかたがない」
  • 池田は自分が努力し、成長しつづけることによって、政権をとった後でも、みんなを求心的にひきつけ、つねに新しい刺激をあたえていった。
  • 「統制は人の心を委縮させてしまう。国民の活力をあふれさせることによってのみ、国は栄えるのだ」
  • 「国づくりとは人づくりである」
  • 「自分が生を受け、そこで生きている国を他の国にまもってもらっている状態では、愛国心は生まれようにも、生まれえない」
  • 「大衆というのは、一所懸命かどうかということをよく見ているものです」
  • 「これが政治家の本当の死だ。俺もできるなら短刀のひとつも突きさされて、弾丸の一発もうちこまれて、死にたい。それは政治家池田の本望じゃないか」

最後に、鎮魂歌として伊藤は「私が本当にあなたのなかに生きれば、こんどは私のなかにあなたが生きてくる。池田あての私から、私あっての池田にきっとなる。私はそう思ったのです。」と書いている。
人の影響力は死後も残り、その人の精神は生き続けるということだろう。