「今西錦司伝」--千五百山の巡礼の旅

今西錦司伝」(斎藤清明ミネルヴァ書房)を読了。

今西錦司(1902-1992年)は、私の師匠の梅棹忠夫先生の、その師匠である。
「長い一生のあいだなにをしてきた、そしてなにをのこしてゆくのか」と今西は自問し、「終始一貫して、私は自然とはなにかという問題を、問いかえしてきたように思われる」と述べている。
科学があつかいうる現象は氷山の一角である。氷山全体を論ずる立場が自然学であった。
そして今西は「今西自然学」を確立する。柳田民俗学、梅棹人類学と同様の偉大な学問体系の創立者であった。

今西錦司という名前は、京都学派の棟梁として燦然と輝いていた。
ところが、今回この本を読んで驚いたことがある。それは今西は遅咲だったことだ。
従来の学問の枠にはまらずに研究をしたため、不遇の時代が長かったのだ。

「万年講師」と言われるほど、講師時代が長かった。しかも無給だった。この点は梅棹忠夫先生も自著で「万年助教授」だったと述べているのと同じだ。
57歳でようやく京大人文研の社会人類学研究部門の教授に就任する。定年は63歳だから教授在任期間はわずか7年に過ぎない。
定年後は岡山大に移るが、65歳で岐阜大学の学長に推され、6年の任期を全うする。

自然学の業績の素晴らしさで、文化勲章をもらうのだが、、私は「山岳学」を打ちたてようとした今西の山行の記録が目に留まった。
62歳で400に達していたが、いつか達成しようと夢見ていた「日本五百山」を66歳で達成。
岐阜大学学長を退官した71歳の時に、日本山岳会会長に就任し、山行のペースがあがり、「日本千山」を達成するのが76歳である。10年で500山を踏破している。77歳で文化勲章を受賞。その後も山行は続く。そしてとうとう「日本千五百山」を83歳で達成する。この間7年だった。
その後は、数を数えずに楽しみの登山に変え、85歳の山行を最後とした。

この本の著者は「生きている限りはいつまでも山に登りつづけたい、巡礼者の姿のように、筆者にはおもえた」と書いている。
今西錦司の山行も「巡礼」だったのだ。

今西は地図上に、登った山道や車で走ったところもすべてに赤線を入れていく。赤線が入っていないところにいきたいのだ。

90歳で老衰で大往生したときの葬儀委員長の吉良竜夫は、「先生に接すると、新しいことに挑戦しようという意欲をかきたてられる。その存在だけで影響を与えることができる稀有の人だった」と述べている。影響を与える人が偉い人だという私の定義によれば、次代の梅棹忠夫川喜田二郎などのそうそうたる高い山脈をつくったこの人はの偉さは格別である。
大興安嶺探検を決定した時の言葉が素晴らい。
「君たちがいる。そして、わしがいるではないか。われわれにやれなくて、だれがやるのだ」。

今西の文章を読んで思うことは、梅棹先生のひらがな多い、わかりやすい文体は、今西錦司からもらったものではないだろうか、ということだ、

ダーウィンの進化論に今西は挑戦した。
ダーウィンは進化を自然現象とみて、生物進化の法則を求めようとした。
今西は進化を歴史としてみたから法則性には拘泥していない。
種というものには自己同一性(アイデエンティティ)が具わっており、それを維持しながら変わってゆく。主体性の進化論である。
ランダムに変異して進化するのではない。環境変化に対応するために、突然変異の頻度を高め、次に現れてくる突然変異を適応の方向に沿うようにして、小刻みに変異を重ねてゆくうちにあたらしい適応型に変わってゆく。そして新しい種にまで変化していくこともある。これが多発突然変異による進化である。ダーウィンのいうような自然淘汰ではない。

  • 自分の目でみて、自分の頭で考えよ。
  • 陰謀を持ち大目標を秘めて生きてゆく人生のいかに生きがいあるかを、私は身をもって経験してきた。

ヒント。

  • 久恒図解学
  • 人物記念館の旅と「日本千五百山」巡礼
  • 地図に赤線