向田邦子文庫

渋谷の実践女子大の120周年記念の新校舎に本日から正式にオープンした「向田邦子文庫」を訪問した。

向田邦子は1929年生れ。
実践女子専門学校を卒業後、財政文化社で社長秘書。
「今、ここで妥協して手ごろな手袋で我慢したところで、結局は気に入らなければはえないのです」と自分の好きなことを仕事にしようと覚悟を決めている。
1952年から雄鶏者の映画専門雑誌「映画ストーリー」の編集者。仕事の傍ら、脚本を書き始める。当時は、朝は編集部で仕事、午後は映画の試写、夕方は脚本書き、夜はライターの仕事、いうすさまじい生活を送っている。31歳で大社し、フリーのライターに。
33歳、ラジオ「森繁の重役読本」のシナリオを担当。
35歳、テレビドラマ「七人の孫」で売れっ子シナリオライターになる。
「だいこんの花」「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」「あ・うん」「隣の女」などのヒット作品を量産。
絶妙な台詞と巧みな構成で「向田ドラマ」と呼ばれ、ホームドラマの基礎を築く。
書いたテレビドラマの脚本は1000本以上。ラジオは10000本を超える。やはり膨大な仕事をしている。

46歳、初の単行本・小説「寺内貫太郎一家」。この年、乳がん手術。テレビの仕事を休んで間に回帰始めたエッセイ「父の詫び状」が高い評価を得る。この出版は、乳がんという大病の「お釣り」だった。手術の時の血清肝炎で右手が利きづらくなる。
51歳で「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」(「思い出トランプ)で直木賞を受賞し、小説家としても高い評価を得た。
「あのとき−−22歳のあの晩、かりそめに妥協していたら、やはりそのわあt氏は自分の生き方に不平不満をおったのではないか、、」。
しかし、今から大きく羽ばたこうとする矢先の1981年に、台湾での飛行事故により逝去。享年は51歳という若さだった。惜しまれた死だった。50代、60代、70代の向田邦子の人生があれば、どのように豊かな実りがあっただろうかと考えてしまった。

卒論は「西鶴」だった。「好色一代男」など浮世を描いた天才が目指す師匠だだったのではないか。
最後の作品となったTBSドラマの「隣の女」の副題は、「現代西鶴物語」となっている。

なかなかの美人で人気もあった。たしか自分では「10人並みの容姿」と謙遜したエッセイを読んだ記憶がある。

この17階建の実践女子大の渋谷キャンパスの図書館の一部として、この文庫がある。
同じ一階には1899年にできた学園の創立者として下田歌子レリーフが飾ってあった。
下田歌子(1854−1936年)は、明治から大正にかけて活躍した歌人で、女子教育の先駆者である。
学祖・下田歌子の号に由来する「香雪記念資料館」があったが、残念ながら閉まっていた。この資料館は女性画家たちの作品を収集、展示している。

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帰りに調布で八木さんと食事。