東郷青児記念・損保ジャパン日本興亜美術館。

東郷青児記念・損保ジャパン日本興亜美術館。
2002年に安田火災日産火災海上が合併し、直後に再建途上だった大成火災海上保険を合併し損保ジャパンとなり業界1位の東京海上火災に対抗する。
2012年には急成長し合併も重ねた三井住友海上火災保険に抜かれたため日本興亜損害保険日本火災興亜火災の合併会社)と合併し、損保ジャパン日本興亜火災となる。
思い起こすと私は就職活動で安田火災にも受かってもいたのだが、当時新宿のトビムシ型の超高層ビルは話題になっていた記憶がある。
その安田火災は4つの損保企業と合併を繰り返して損保ジャパン日本興亜火災となった。最近の金融や保険の地殻変動がよくわかる。

社名は変更の連続だが、超高層ビルの本社は健在だ。その中に東郷青児の名前を冠した美術館がある。この美術館には1987年に53億円で落札して話題になったゴッホの「ひまわり」を所蔵している。

さて、東郷青児(1897-1978年)である。30代の時代に東郷の作品は安田火災の前身である東京火災のパンフレットやカレンダーに1933年から「作品が採用されている。7年に及ぶフランス時代にギャラリーの装飾美術部門で働いたことがあり、それが帰国後の壁画、緞帳、商業デザインなどジャンルを問わない旺盛な活動の源泉になった。その活動が自身の名前を冠した美術館に結実したのだから、人生はわからない。

独特な女性の絵でで有名だが、竹久夢二の絵に似ていて、それを西洋風に変えた感じがしたのだが、10代の頃には東郷は夢二の代筆をしていたことで納得した。

東郷は未来派シュールレアリスムなどを経て、年齢を重ねるごとに画風を変えていった。
戦後は主戦場の二科会を再建し、実質的な主導権を握り、東郷二科会と呼ばれていた。ヌードモデルを連れて街を練り歩く二科会前夜祭で話題を呼ぶ。漫画部、商業美術部、写真部を新設している。そして世界の規模の美術交流をはかった。やり手だったのだ。

東郷の作品の特徴は、1・大衆性、2・優美・華麗な感覚と詩情、3・職人的完璧さと日本的装飾性、といわれている

さて、東郷は女性関係も派手だった。若い頃の写真をみると整った美男子だ。年配になっても素敵な風貌だ。
その一人が作家の宇野千代だ。「生きていく私」という自伝には、東郷のことが書いてある。
東郷青児と言う男が、巴里帰りの有名な画家で、つい最近、情死事件を起こしたことは、、、誰知らぬものはなかった。」
「私と青児とは或る街角の喫茶店の前で出会い、そのまま青児の家へ行って、一緒に寝たのであった。、、、そして私は、翌日も翌々日も、その家から帰らないで、そのまま、青児の家で一緒に暮らしたのであった、、」
「私はそれまでの、着物一点張りの習慣をがらりとやめて、巴里直輸入ばりの洋服ばかりを着るようになった」。
宇野千代は、東郷には日本のマナーを教えた。そして「一種、かげのある、あの顔」と後に述べている。

同時代を生きた佐藤栄作総理の日記でも東郷青児の中前が出てくる。
文化勲章は無理でも、文化功労者はなんとかならんか、とねじ込んでいるがそうはならなかった。
しかし、自身の名前を冠した素晴らしい美術館が時代を超えて生き延びているのは凄いことだと思う。