岡崎嘉平太。岸田吟香。宮本武蔵。片山潜。法然。

知研岡山の伊藤会長の車で岡山県の東と北を駆け巡る。

岡山県吉備中央町の岡崎嘉平太記念館を訪問。
岡崎(1897-1989)は日中国交正常化の立役者であり、全日本空輸を始めとする数々の企業の設立や再建を果たした。

1962年11月に結ばれたいわゆるLT貿易は岡崎構想に基づいており中国との重要な|となった。このため岡崎は周恩来と18回の会談を行った。当時の日本ではよくから売国奴と言われたり卵をぶつけられたりした。
1972年の日中国交回復時には周恩来首相から、水を飲むときには井戸を掘った人を忘れないと言う諺が中国にはあるが、岡崎先生と松本先生(松本重治)はその1人ですと感謝された。
岡崎嘉平太は岡山中学、第一高等学校、そして東京大学法学部政治学科を卒業し日本銀行に入行した。42歳のときに日銀を退職し上海の商業銀行を設立し理事に就任した。そして大東亜参事官就任、結局8年間の上海生活を送った。帰国を公職追放にあったが、経済界からの強い要請もあり、池貝鉄工、丸善石油等の社長を歴任し再建を果たしている。日本ヘリコプターの設立にも参加し昭和36年からは名前を変えた全日本空輸の社長に就任している。65歳の時には先に述べたLT貿易を調印した。中国という国は奥が深く何度も訪れている。92歳のときに実に100回目の訪中を行った。
「信はたて糸 愛はよこ糸 織り成せ人の世を美しく」
「人の身になって考えよう」
「放眼世界 懐胸祖国」
「前事不忘 後事之師」

岡山県美咲町岸田吟香記念館を訪問。
岸田は明治の時代にあってあらゆることに挑戦した人物だ。業績を見ていくと「日本最初」という言葉が冠につく。

日本最初の新聞発刊者。
日本初の水溶性目薬の創始者。
日本初の和英英和辞典出版者。
日本初の従軍記者。
広告宣伝の先駆者。
日本初の盲唖学校の創設者。
製氷業の先覚者。
日本と中国の親善大使。
石油採掘業の先覚者。
製薬業界への貢献者。
定期船航路の開拓者。
面白いのは、卵かけご飯を広めた人物としても記録されている。岸田吟香の四男は画家の岸田劉生である。
口癖は「大魚は小池で遊ばず」だった。とにかくものすごいエネルギーで時代を駆け抜けた人であった。

岡山県美作町の武蔵の里を訪ねる。
まず、武蔵の生家跡を訪ねた。この辺は宮本と言う地名だった。小さい頃から暴れん坊であり、好きだった武蔵坊弁慶の名前から武蔵と名乗った。吉川英治先生文恩記念碑も建っている。「宮本武蔵」がベストセラーとなり宮本武蔵は有名になった。

次に武蔵資料館を訪問する。宮本武蔵は13歳から60余度の真剣勝負を行い1度もその利を失わなかった。21歳の時に一乗寺下り松で吉岡一族に勝つ。巌流島での佐々木小次郎との決闘は29歳の時だった。その後祖国を巡遊、二天一流を完成させる。晩年は肥後熊本家に士官し、58歳のときに兵法三十五箇条、62歳では有名な「五輪書」を著した。武蔵は教養があり優れた絵や書を残している。剣禅一如。文武両道の人であった。剣豪という人たちの中で、武蔵は静かにこの世から去った珍しい人だった。「独行道」では、「我事において後悔せず」という有名な言葉を掲げている。展示されている絵は実に見事な出来栄えだった。教養人としての武蔵を描いた本を買った。

次に片山潜記念館に向かう。片山は社会主義者、共産主義者として世界を駆け巡った人物である。片山のなくなった11月5日には共産党主催のお祭りが今でも行われているそうだ。この小さな記念館の中の片山の資料を見ていて、モスクワでなくなったときの写真が目に入った。赤の広場へ向かう一団の先頭に棺を担ぐスターリンの姿があったのには驚いた。世界的な人物であったのだ。1922年のコミンテルン極東民族大会では片山は議長を務めた。記念館の向かい側には片山潜の碑があり、その傍らには「不屈の戦士ここに眠る 岡山県日本共産党員の墓」と書かれた石碑がある。
久米南町図書館には片山潜コーナーがあった。その横には法然のコーナーもある。

近くに法然上人を本尊とする誕生寺がある。1147年法然15歳のときに植えた木がある。

夕方6時から10時は小豆島合宿から合流した多摩大学の金先生と奥山先生とお酒を飲みながら歓談した。学生30人近くが参加した合宿は大きな成果があったようだ。

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忌日

  • 菊池寛:二十五歳未満の者、小説を書くべからず。
  • 石坂泰三:日本に今一番大切なものは、経済道義の高揚である。

命日

  • 大町桂月:一日に千里の道を行くよりも、十日に千里を行くぞ楽しき。
  • 宮本輝:与えられた仕事をコツコツと地道にやり続けた先に、自分にしか到達できない泉がある。