「丹下健三が見た丹下健三」展

丹下健三が見た丹下健三」展が青山のTOTOギャラリーで開催中で、先日みてきた。
写真をこよなく愛した丹下健三(1913-2005年)の1950年代に自らの作品を撮影した写真が並べてあった。
1950年代は、丹下は建築デザインだけでなく、文章を用いた建築理論においても日本の建築界をリードしていた。
丹下の36歳から46歳までの写真である。

縄文と弥生の二項対立を丹下弁証法で高い次元の「合」にしていく。
向かって左と右に対極的な形を置き、その中心を進んだ先に小さいがシンボリックな存在が見えるようにするのだ。
倉敷市庁舎は縄文的表現。香川県庁舎と倉吉市庁舎は縄文から弥生の過渡期のコンクリート作品。東京都庁舎は弥生的伝統の鉄による表現。

丹下は東京帝大工学部建築学科には2年の浪人の後に入学しているし、一躍有名になった広島平和記念公園が完成した時には既に40歳になっており、早咲きの人ではなかったのは意外だった。丹下は膨大で優れた仕事を実現し、晩年に向けてしだいに重きをなしていく。

  • 日本の伝統を否定し、変革しつつ、しかも正しく受け継ぐ。
  • 美しきもののみ機能的である。

東大を出た丹下は、前川国男建築設計事務所に入る。10年先輩の前川はパリで近代建築の雄・ル・コルビジェに師事した。
その後、東大に戻った丹下は大学院時代にかけて次々にコンペに入賞する。
1946年には建築家の助教授になり、通称「丹下研究室」をつくる。
丹研は、槇冬彦、磯崎新黒川紀章などの優れた人材を生んでいる。

丹下の国内の作品。
代々木国立屋内総合競技場。日本万国博覧会マスタープラン。草月会館赤坂プリンスホテル広島平和記念資料館・平和記念館。山梨文化会館。静岡新聞静岡放送東京支社。在日トルコ大使館。在日ブルガリア大使館。ハナエ・モリビル。愛媛県文化会館。兵庫県立歴史博物館。横浜市立美術館。
そして威容を誇る新宿の都庁、お台場のフジテレビ、、、。

丹下の仕事は全世界にわたっている。
サウジアラビア王国国王宮殿。ナイジェリア新首都計画。WHO本部計画。クエート国際空港。キングファイサル財団本部。、、、、、。

51歳、新設の東大工学部都市工学部都市工学学科教授。61歳、定年退官し名誉教授。
66歳、文化功労者。67歳、文化勲章。しかし、この賞の受賞についてくる年金は東大から寄付を強要されて、丹下の懐に入らない。

読破文献。

丹下健三―一本の鉛筆から (人間の記録 (57))

丹下健三―一本の鉛筆から (人間の記録 (57))

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命日

  • 岩崎弥之助:三菱の事業は一門のために経営するのではない。お前たちの中に国家のことを考えず、岩崎家のみを考える者があったなら、三菱は潰したほうがよい。このことを、しっかり腹に入れておくがよい

誕生

  • 島崎藤村:昨日またかくてありけり今日もまたかくてありけむこの命何を齷齪(あくせく)明日を思ひわずらふ
  • 佐伯勇:果報は錬って待て。
  • 小山五郎:人を裁く前に、自らを律せよ