「邪馬台」での連載---「読書悠々」-歴代総理編・最終回。

久恒啓一

今回は、「歴代総理編」の最終回である。竹下登細川護煕村山富市小泉純一郎を取りあげる。
細川、村山の両氏は、自民党以外の政治家が首班となった時であり、連立政権の内幕がみえて興味深い。
特に、我が大分県出身の村山総理が進退をかけて取り組んだ「村山談話」は、安部政権下でこの夏の焦点になるはずであり、ここに全文を掲載した。

竹下登「政治とは何か--竹下登回顧録」(講談社)。

伊藤隆御厨貴という二人の教授による2年間のロングインタビューをまとめた書物だ。
日本の戦後政治を知り尽くした政治家の貴重な証言録である。
内容は、政策の話はほとんどなく、政局に偏っている。ほとんどは、「気配りの竹下」よろしく、政治家同士の人間関係と人事の話題である。
自分の意見よりも、他の政治家の言葉の解説も多いのも特徴だ。
御厨教授が質問する時に、私も読んだ「佐藤栄作日記」からの引用がよく出てくる。佐藤栄作日記は、総理時代の記録だが、事実と率直な感想が簡明に書かれていた。それを材料に竹下政治に迫るという試みだ。

竹下登は、1924年生れ。早稲田を出て中学校教員を経て、27歳で島根県議会議員に当選。
34歳、自民党から衆議院議員に初当選。39歳、通産政務次官。40歳、佐藤内閣の官房副長官
47歳、佐藤内閣の官房長官。50歳、田中内閣の官房長官。55歳、大平内閣の大蔵大臣。58歳、中曽根内閣の大蔵大臣。60歳、創政会会長。62歳、経世会会長、自民党幹事長。
63歳、総理大臣。65歳、総辞職。76歳、引退、死去。大勲位菊花大綬章。
目に見える業績としては、消費税の導入と「ふるさと創生」か。
本書のタイトルは「政治とは何か」だが、竹下の答えは「調整」ということになるのだろうか。

以下、竹下語録から。
・国際経済摩擦は、当面それによって打撃を受ける国内対策だなとしみじみ感じました。
・ハーモナイゼーションもガバナビリティの一つだ。
・タフ・ネゴシエーターは、相手の立場まで下がる、あるいは相手の立場を引き上げていく能力があるということだ。
そして竹下が尊敬する政治家・椎名悦三郎の言葉が紹介されていた。
・「相手に屈辱感を与えないで、間違っておったなということに、そこはかとなく気づくような答え方をしてあげなければいかん」
この本を読んで改めて感じるのは、竹下には、うなるような語録がない。それがこの政治家の特徴である。

細川護煕「内訟録−−細川護煕総理大臣日記」。

熊本県知事の細川は1992年5月の日本新党結成後、直後の参院選で4議席、翌年の東京都議選で20議席、そして93年7月の衆院総選挙で35議席を獲得した。自民党は過半数を大きく割り込み、自民党を飛び出した新生党小沢一郎は細川を首班に立て非自民非共産の政権を樹立した。この政権は結果的には8ヶ月で瓦解する。
記録を大事にするという家訓のあった細川は、総理時代に日記をつけることを決心する。在任中の記録を整理し、自民党から民主党への歴史的な政権交代のさなかに世に出した書物である。
この自伝の表現上の特色は、「明言せり」「事実ならん」「いわざるをえぬ」など文語調の日記であることだ。
また様々の決断の時に中国の古書や世界のリーダーの言などが随所に出てくることも特徴だろう。政権の内部、外部の関係者の証言も随所にあり、新聞の「首相官邸」欄が毎日の日記の下段に記されているので、どのような状況の中で総理が書いた日記かがわかる構成となっている。

総理辞任の時のやり取りが生々しい。
「このところまさに内憂外患、、。深更ひとり書斎にありて、来し方行く末、日本国の将来につきさまざまに思いをめぐらす中で、自らの出処進退につき、このあたりが総理の職を辞すべき潮時とはらを固む。、、小沢氏に取りあえず電話にて私の意中を伝え、氏もその決意なら致し方なしと了承す。」
鳩山由紀夫官房副長官「総理の平然とした態度に感心もし、また、人間らしさの欠如に怖さも感じた。党首代表者会議はあっけなかった。、、新生党小沢一郎代表幹事は目を瞑り涙をこらえているかのようにみえた」
山崎拓議員「選挙の翌日、YKKで会って「細川を担ぐ以外に数が足りないので、細川のところに行こう」という話でした。あの発想は小沢氏もしたけれどYKKもしたんですよ。確か小泉が言い出したと思います。しかし、瞬間タッチの差で遅れた。愕然としましたよ。」

細川は今日の時点でのインタビューに次のように答えている。
・こちらに私心がなければ何ていうことはないですよ。
・西郷さんを読んで一番、印象に残っていることは無私ということと謙虚さということです。
・私にとって一番参考になるのは(細川)幽斎ですね。幽斎は常に中庸を行った。中庸とは右と左の中間ということではなくて、大道を行くということなのですが、それはやはり歴史感覚から生まれるものですね。
・つまるところははらが坐っているかどうかだけなんですよ。やることは断固としてやるという私心のない人が、5、6人いたら、大抵のことはできる。

政権交代時の政治情勢の中で読むと、細川総理時代の関係者の言動が興味深い。小沢、鳩山、菅など後の民主党政権の主役たちの息づかいが聞こえてくる本だ。
細川護煕は突如新星のように中央政界に現れ、非自民非共産の歴史的政権を担当し、すぐに寂靜の中に入った。見事な出処進退だ。
細川は「天の時」を知った人物だが、この「内訟録」も出すべきときに出した書物である。

村山富市佐高信村山談話」とは何か (角川oneテーマ21)
 村山富市回顧録(岩波書店

村山談話。「戦後五十年に際しての談話」。1995年年8月15日。

 先の大戦が終わりを告げてから、五十年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様一人一人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表すものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらに欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。時に近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この二つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、引き続き誠実に対応してまいります。
 いま、戦後五十周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
 敗戦の日から五十周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義を押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の廃絶を目指して、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ過去に対するつぎないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
 「杖(よ)るは信に如くは莫(「な」し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根本とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。(「杖るは、、、」は、頼りとするものとしては、信義に勝るものはない。出展「春秋左伝」)

尋常小学校、高等小学校を終了し、働きながら、東京市立商業学校夜間部、明治大学専門部政治経済学科夜間部、そして明治大学専門部政治経済学科昼間部への転部という学校歴をみると、この人の言動を人間として信用できる気がしてくる。

村山は昭和19年に召集される。
「みんな木銃を使って訓練していた。剣がないために五人に一人、小刀が支給された。軍靴の代わりに地下足袋、飯ごうの代わりに竹の皮十枚、水筒の代わりに竹筒が配られた」と語っている。
敗戦まじかの軍隊の中身を知りまた不合理な軍のありかたに触れて、戦争に疑問を持った
経歴だけをながめると、市議、県議、国会議員予算委員会国会対策委員長、総理大臣と順調に志をとげてきたようにみえる。しかし、自分から手を挙げたことは一度もない。
国会の仕事では、「約束したことは守る。言ってはならないことは言わない」という信義を重視し、「密室の国体政治はやめる」という原則を貫きながら誠実に仕事をしていく。
人生の節目に、不思議と役回りが巡ってきて、断り続けるのだが、周囲の情勢がそれを許さない。結果として、無欲のまま、自民党からかつがれて社会党委員長として首班となる。「人生には巡り合わせがある」と強く感じる人生だ。この運命がやってきた時には、そこから逃げないで、真っ向から取り組んで、乗り越えていくのがこの人の真骨頂だ。
総理になったのは天命、と述懐している。
総理として「護憲・反安保・自衛隊違憲」などを主張していた社会党の党是を時代の流れを見ながら転回させる好機だと思って、政策転換を行ったのである。

以下、村山総理の言葉をあげるが、時代を超えて心に響く言葉が並んでいる。
・戦後五十年目にけじめをつけて、新しい日本の進む方向を示し、中国や韓国、アジアの国々の信頼を回復するために、内閣として出した、、。
・「侵略的行為」と「侵略行為」と「侵略戦争」という議論。「侵略によって」におさまった。
橋本龍太郎通産相は、文案の「終戦」を「敗戦」にという指摘。
・戦後五十年の区切りの談話を発表し、使命がすんだら、内閣は終わってもいいという腹づもりだった、
・「談話」でけじめがついて、あとの総理は「継承」すると明言した。アジアの国々とはそこから先の話し合いができるようになった。
・戦後、半世紀以上も経っていまだにこれだけの米軍基地が日本に必要なのかとも思う。
・辞める時は一人で決める意外にない。
・党を変えるチャンスだと思って政策を変えた。
・2009年の総選挙。自民党があまりにひどかったから政権が民主党に移ったんだ、だけど誕生した民主党政権はだめだったなあ。その最大の原因は、やはり官僚機構という生きている組織を活用できなかったことだ。
・迷いがあるまま突っ込んでいったらケガが大きい。
・人間のすることだから、自分にもできる。
・私心を捨てて職に専念するしかない。職をまっとうするしかない。腹を決めてやるしかない、自分を捨ててやるだけだ。捨身の強さに徹するしかない。
・単独政権よりも連立政権のほうがベター。プロセスが明らかになる。
・集団的自衛権の足を踏み込ませることは、絶対にさせてはいけない。
・戦前がまさにそうでした。この程度のことは、と見過ごしてきた小さな穴が、手がつけられない大きな穴になり、無謀な戦争に突入することになった。その間違いを繰り返してはいけません。なし崩し的に自衛隊を海外に出していくことは許されない。
・沖縄の基地の問題は日本全体の問題だと受け止めて対応すべき。、、、沖縄県民が担ってきた重荷、苦渋は、日本国民全体が引き受けるべきです。
・アジアと日本のこれからを考えた場合、今のようにアメリカだけに頼っていたのでは、日本は孤立するのではないかと心配です。

○「小泉官邸秘録」(飯島勲日本経済新聞社

5年5ヶ月という歴史的な長期政権だった小泉政権の首席総理秘書官の回顧録である。
常に総理の近くにいて一心同体で政権運営にあたっていた姿と自負が垣間見える。
「政権の形を作る」の章では基本哲学、経済諮問会議、特命担当大臣、官僚人事の掌握、官邸スタッフの強化、メディア戦略、官邸外交などの項目が並んでおり、小泉政権の形作りが内部から語られる。
政権の骨格はチーム小泉の形成から始まった。「総論でタガをはめ、大臣を押さえ、官僚組織のトップを押さえることで各論での「骨抜き」「逃げ」を許さない」やり方で政策を推進していく。
ハンセン病訴訟問題、骨太の方針2001、予算編成の歳時記の変更、最初の試金石・道路公団改革民営化、三方一両損医療制度改革、BSE事件、田中真紀子外相更迭、9・11同時多発テロ有事法制北朝鮮訪問、年金改革、郵政民営化シフト、民営化法案を巡る攻防、参院否決と衆院解散と大勝利、三位一体改革市町村合併行政改革推進法、歳出入一体改革、8月15日靖国神社参拝。
この間の小泉総理の決断と判断、それを示す言葉が紹介されている。
小泉総理は、取り組むべきテーマと目標を決めたら迷わずに真っすぐに進み、決してぶれない人物として描かれている。そのときどきの状況や関係する人々の言葉や行動も読者もまだ記憶に新しいので、説得力がある。議論の主導権は総理が常に握っていたことがわかる。

「一度決めたら決してぶれない。最後までやり抜く。決断は大胆に、行動は細心に。まさにそれが小泉流なのである。」
「総理は一貫して国民にとってわかりやすくなければならない」と主張していた。」
「年明けから寒波・雪害対策を始めたいという役人を一喝して御用納めの12月28日に政府・与党の対策をスタートさせた。」

首席総理秘書官という立場の筆者は、抑制的な語り口で私情を挟むことなく政権の姿を淡々と描いている。この間の敵であった自民党抵抗勢力や野党の政治家などについての論評も控え自制して書いている。
1972年の小泉の初当選以来秘書をつとめた筆者については在任中悪意に満ちた報道もあったが、この本での肉声を聞くとやはり憂国の士であるという印象を受けた。
やはり現場からの報告は掛け値なしに面白い。
いずれ「小泉純一郎回顧録」という本人の口から語る政権運営とその折々の心情を記した本を読みたいものだが、当面はこの本や竹中大臣などの回顧録を読みながら、この政権の総括をしたいと思う。

小泉語録から。
・痛みを恐れず、既得権の壁にひるまず、過去の経験にとらわれない
・切られるところは反発するぞ。でもその方がいいんだ、反発がある方がわかりやすい。
・総論をしっかりしてくれ。総論がきちんと決まってくれば各論は押さえられる。
・各省には「対案を出せ」と言え。反対ではなく対案だ。
特殊法人改革は言ってみれば政府の不良債権なんだ。
・自分はトップダウンではない。国民の支持のボトムアップだ。
自民党公明党が国民の審判によって過半数の議席を獲得することができなかったら、私は退陣します。

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名言の暦  6月17日

命日

  • 平沢興1989:勤勉努力は凡を非凡にする。
  • 松下竜一2004:だれかの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬ。

誕生日

  • 保科正之1611:政事(まつりごと)は利害を以て道理を枉(ま)ぐべからず、僉議(せんぎ)は私意(しい)を挟み人言(じんげん)を拒(ふさ)ぐべからず、思ふ所を蔵(ぞう)せず以てこれを争ふべし
  • 西田幾多郎1870
    • 人は人、吾は吾なりとにかく吾行く道を吾は行くなり。
    • ただ一つの思想を知るということは、思想というものを知らないと同じだ。
  • 臼井吉見1905:読書とは、つまるところ、邂逅、出会いの問題に帰するだろう。