「画鬼 暁斎」展--幕末明治のスター絵師と弟子コンドル

三菱一号館美術館の「画鬼 暁斎」展。
副題は「幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」。

江戸以前の日本の伝統的な絵画の技法のすべてが河鍋暁斎に流れ込み、それが明治の時代に様々な形で花開いていく。そういう特別な才能と技術を身につけた異色の絵師が暁斎(1831-1889)である。
あまりにもその画業が多彩で、かつ膨大であり、絵画史上の位置づけが難しかったため、長い間暁斎は忘れられていた。
動物、幽霊、美人画、戯画、浮世絵、春画、人物画、妖怪、芸能・演劇、風俗、、、、。

しかし明治の文明開化の時代には、圧倒的な人気があった。またお雇い外国人などを中心に圧倒的な人気があった。コンドル[1852-1920)などを中心に海外にも情報提供があり、当時の暁斎は、北斎と並ぶ人気があった。

暁斎と書いて「きょうさい」と読む。この漢字の前は「狂斎」と名乗っていたから、そのままの音で呼ぶようにしたのだろうか。

今回の企画展は、日本近代建築の父と呼ばれるジャサイア・コンドルとの関係がみものだ。
コンドルは24歳で訪日し、以後本国イギリスに二度帰る以外は、日本舞踊を習いその師匠のくめを娶るなど生涯を日本で過ごした。コンドルは暁英という号をもらっている。
コンドルは、三菱一号館、上野博物館、鹿鳴館有栖川宮邸そして岩崎弥太郎の私邸などの名建築を残した。


コンドルの遺伝子が東大の建築に埋め込まれて、横綱の土俵入りの姿を現しているという東京駅をつくった辰野金吾らの建物を生んでいく。
シカゴ万博で日本の平等院鳳凰堂からライトという建築家がインスピレーションを得て、アメリカに紹介し、それがヨーロッパにも影響を与えるなど、実は近代建築の直接的なルーツは日本建築にあったと言われていると隈研吾が語っていてお驚いた。

そして、この29歳の若者は中年に差し掛かっていた51歳の河鍋暁斎に弟子入りし、狩野派の絵師としても頭角を現している。コンドルはこの尊敬する師について学び、一緒に旅もしている。暁斎の臨終にも高弟として臨んでいる。

フェノロサ(1853-1908)と橋本雅邦の関係が日本画の再興を促したように、暁斎とコンドルの関係も、一つの奇跡だ。
岡倉天心フェノロサ東京美術学校の教授への着任を頼みにきたが、その後まもなく暁斎は亡くなってしまった。これが実現していたら、その後の日本美術は違った展開になっただろう、
この二人展は、コンドルが設計した建築の中で行われるのが感興を誘う。

コンドルなどを通じて外国は日本を学んだ。浮世絵からヒントを得たゴッホなどの西洋画もそうだが、ドナルド・キーンによれば、日本の軒(のき)もヨーロッパが取り入れたとのことだ。

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名言の暦 7月10日

命日

  • 井伏鱒二1993:花に嵐のたとえもあるぞ。「さよなら」だけが人生だ。
  • つかこうへい2010:人間にとって大切なのは、何を恥と思うかです。

生誕

  • 賀川豊彦1888:一生を50年として、その半分を寝ることと食うことに費やしてしまうとすれば、一生の間に、創作的態度に出られる期間は僅か5年か6年しかない。
  • 今和次郎1888:
  • 花菱アチャコ1897
  • 飯田龍太1920:晩年の父母あかつきの山ざくら
  • カール・ルイス1961
    • すべてが過程だ。結果ではない。
    • 自分でコントロールできないことを排除して、できることに集中するんだ。