山崎豊子の二人の師、方法、人柄、志、、、。

山崎豊子展で手に入れた三冊の本を読了。

山崎豊子「自作を語る--大阪づくし 私の産声」(人生編)

大阪づくし私の産声山崎豊子自作を語る2 (山崎豊子自作を語る 2)

大阪づくし私の産声山崎豊子自作を語る2 (山崎豊子自作を語る 2)

山崎豊子「自作を語る 作家の使命 私の戦後」(作品編)

野上孝子「山崎豊子先生の素顔」
山崎豊子先生の素顔

山崎豊子先生の素顔

以下、参考になったところをピックアップ。

「植林小説」という志について。

  • 茶褐色の地ハダのはげ山に、一本、一本、樹を植えて行くような小説を書きたいと思っている。一本、一本の枝ぶりは武骨で悪くとも、はげ山一面に植え込んだ樹林の形容、大きさ、根強さなどに心を砕いた小説を書いていきたい。いわば「植林小説」とでもいうようなものを、、、、。(1958年)

二人の師。石川達三井上靖
石川達三

  • 石川達三先生は、私がもっとも敬愛し、私淑した作家である。、、、作品を通して多くの弟子を育てられた稀有な作家であると思う。

井上靖

  • 新聞社にいても、自分を見失わないことですよ。
  • 殆ど毎朝5時に起きて、新聞記者という激しい仕事を持ちながらも、出社する前に小説を書いて来られる井上さんの小説に対する情熱と姿勢にうたれ、、、
  • 井上さんは午前五時に起きて、作家として世に出るまで四千枚の原稿を書きためねばならぬと、自分に課した目標に向かって、ペンを執っておられるのだと思うと、粛然とした気持ちになった。(1991年)
  • 記憶に残る言葉といえば、「絶えず勉強しなさい」という平凡にして、至難な言葉である。

小説の方法

  • 取材をして小説を書くのではなく、取材に出かける時には、既に構想が出来あがっている。
  • 構想を練り、プロットができた段階で、進行表をつくります。四百字詰め原稿用紙をつないで長くしたものに、大きな流れを指示したり、並行して行う取材の質問事項を書き込む、書いていて、迷路にはまったら取りだして見るわけです。
  • それを自分でおこすわけです。テープおこしも、創作過程ですよ。
  • 朝十時から午前一時。最低十二時間、働きます。
  • テーマの構築に充分、一、二年ぐらいかかります。、、、まずテーマがあって、そのテーマを小説的に構築できて初めてそのテーマに合う取材をひとつひとつ積み重ねていくんです。建築の設計図を引くように、年代、その時の社会、国際政治がどうだったかという表を作り、その上に主人公の行動をずっと書き込んでいくんです。建築家が描く高層建築の設計図のようなもの。、、、、それと同じようなピシッとした年表と小説の進行表がなければ建てることはできません。
  • 私の十冊。

アンドレ・ジイド「狭き門」。ヘミングウェイ日はまた昇る」。エドガー・スノー「中国の赤い星」。巴金「家・春・秋」。ボリス・パステルナーク「ドクトル・ジバゴ」。ソルジェニーツィン「収容所群島」。ジョン・ドス・パソス「U.S.A」。ジョン・ガンサー「アメリカの内幕」。ウィリアウム・サファイア「大統領失明す」。(1998年)

山崎豊子の人柄

  • 意見無きものは去れ、が信条。
  • 冗談が通じない人。
  • 「私のような子供のいない作家にとって、作品は子供です。その子供から得たももは、子供のために使うのが、自然なことです。」
  • ゲーテの格言「努力する限り、人間は迷うだろう」が座右の銘

沈まぬ太陽」執筆時のエピソードから。
航空会社でパイロット、客室乗務員、整備を含む地上職の各組合員を取材した時、ずっと立ち会っていた広報室長は「日米航空交渉を書いて戴けませんか、、」と提案しているが、山崎はそれをやんわりと退けた。「何を書こうとされているのですか。ずっと傍らで聞いていても、テーマとなることが分かりません」との質問に「空の安全です。今はこれだけしか言えません。あなたも広報が長いのだから、そろそろパリかニューヨーク支店にでも志望を出したらいかが?」と言うと広報室長の顔つきが変わったと秘書の野上は書いている。「この会社の取材で珍しく人柄を感じる人物だけに、先生は次第に情がうつったのか、執筆が始まる前に、広報を離れた方が無難よと、以心伝心で伝えたかったらしい」。

「志」というメッセージ

  • 国を思う「志」を持つ人がどれほどいるか。今、日本人に一番欠けているのは、そこなのではないでしょうか。これからの経営者しかり、日本と日本人としての「良心」「志」を持って事に対処している人が多かったなら、現在の非人間的なリストラは、もう少し違ったものになったのではないかと思います。