新田次郎「富士山頂」--気象庁測器課長と作家のはざま

新田次郎「富士山頂」(文春文庫)を読了。

富士山頂 (文春文庫)

富士山頂 (文春文庫)

作家の新田次郎は、気象庁測器課長として富士山気象レーダー設置工事の技術責任者であった。
二足のわらじを履いていたこの人物の考え方と組織への対応、そして出処進退に対してどういう考え方をしていたのか興味がある。

新田次郎は、作家の副業を持ち、俸給よりも多い収入を原稿によって得ており、組織内において野武士的な言動で、存在感のある人物として自らを描いている。

  • 経済的安定感は、彼を職場において孤立させた。
  • 昇格を求めていない。
  • いつ辞めても筆で食っていけるという自信があるから強い。怖いものなしっていうんでしょうね。ああいう役人は御しがたいってね。
  • レーダー完成という終着点を頭に描き、ほとんど同時に、全く偶然に彼は退職ということを考えたのである。
  • 人事院はぼくに気象庁を辞めろと言ったのですか。
  • 辞めると決めた心の隅に、もしも村岡が強硬に辞職を反対したらという気がないでもなかった。

富士山レーダーの建設という一世一代の大仕事を引き受ければ、3年間は小説が書けない。その間に世間から忘れられるという恐怖のはざまで彼は迷った。

自宅の書斎から見える富士山を見ながら、「もし逃げたなら、逃げたという悔恨は富士山を見るたびに彼を責めるだろう」という考えに至り、10年になっていた補佐官を卒業し、測器課長を引き受けることにした。
そして上司や同僚、関係する業者などで構成された一大事業に邁進し、「オリンピックで金メダルを取ることより、もっとむずかしい仕事」を完成させる。

実際に役所を辞めた53歳から14年間、毎年のように大型話題作を発表し、新田次郎は大作家になっていった。

この文庫の表紙には、冬の富士山の真正面に木製の机に陣取って事務をとっている人物の後ろ姿が描かれていて、印象深い。この人物こそ、新田次郎本人である。

                                                                                  • -

所用があって、新幹線で仙台日帰り往復。
昼食は、旧友の富田さんと横野さんと。

「名言の暦」12月14日
命日

生誕

  • ノストラダムス1503:
  • 猪熊弦一郎1902:絵はたまに描いたんでは駄目なんです。毎日頭から絞り出していないといけない。絵を描くには勇気がいるよ。