朝井まかて「落葉」(祥伝社)--神宮の森と明治という時代

朝井まかて「落陽」(祥伝社)を読了。

落陽

明治天皇を祀る明治神宮1920年に鎮座祭を行った。

神宮の森は、150年後の完成に向けてスタートしたのである。

自然による遷移を繰り返し、2070年頃に完成を迎える、という壮大なプロジェクトだ。

このプロジェクトの主役は、東京帝国大学農科大学の本多静六博士、本郷高徳講師、上原敬二技手の3人だ。30代半ばの本郷は明治19年生まれとあるから、私の母方の祖父と同じだ。祖父は東京師範学校を出て、内地や中国青島の中学校の校長を歴任した人だが、そう考えると親しみが湧く。

 

明治末年・大正元年(1912年)から、1920年までの物語である。

狂言回しは、勃興しつつあった新聞界に籍を置く帝大出の記者であるが、この本の本当の主役は、明治天皇である。いや、天皇制という不思議な政体である。

 

ただ一人(明治天皇)の病状を巡って国民が固唾を呑んで見守ったのは有史以来初めてのことであり、二重橋前の広場に恢復のを願う人々が多数現れた。そして何かに祈っている。この姿には経験がある。それは昭和天皇のときと同じ風景だ。

文学者、思想家、社会主義者、ほとんどが天皇への尊崇を公言していた。「三四郎」で「この国は亡びるね」と言わしめたあの漱石にしても「天皇の徳を懐(おも)ひ、天皇の恩を憶(おも)ひ謹んで哀衷を巻首に展(しの)ぶ」で終わる淡々とした名文の奉悼文を書いている。日本人は、思想と魂とを分けており、国と天皇を別にとらえているのである。

こういう天皇とは誰なのか。

なぜ、皆、天皇をそうも尊崇する。慕うのか。

人々が何ゆえに帝を尊崇し、神宮を造営し奉りたいと願うのか。

明治を生きた人間にとって天皇への万謝の念、よくぞ天皇として全うしてくださった。

天皇自身の人生はどうだったのだろう。「己は誰か」と問うた磁気はなかったのだろうか。

明治天皇は全国各地を巡幸している。それは、古代の「国見」という儀礼行為だったのではないか。土地や民草を見、聞き、知ることが「治(しろ)す」治めることだった。人々は帝のまなざしを受けることで「受け入れられ、守られている」と感じ、手を合わせる。支配でもなく、屈服でもない。日本独自の静かな響き合い方だ。帝が「民を守る」とは、その実情を知り、思いを寄せることであり、理解することなのだ。

生涯9万首の歌を詠んだ明治天皇

「国のためたふれし人を惜むにも思ふはおやのこころなりけり」

かつてない変革期を迎えた日本に生まれ、近代国歌の君主になる運命を受け入れ、許容すべきものと、守るべきものの裁断を常に求められ、やがて大帝としての振る舞いや思慮を身につけた。日露戦争の頃から一切の遊びごとに関心を示さす、献身的に国事に傾注した。この国を一つにまとめ上げるための精神的支柱としての役割に徹し、自我を没し、君主としての生を貫いた。

本郷が「己が為すべきことを全うするだけです。明治を生きた人間として」と言い、壮大なプロジェクトの指揮をとっていくが、明治という時代は、あらうゆる分野においてそれぞれがそれぞれのつとめを果たそうとした志した時代であったということだろう。

神宮林は明治天皇への郷愁であり、感謝である。己の為すべきことを全うした人を神にお戻ししようという営為である。祈りの森である。

 

明治天皇は君主として生きた。昭和天皇は君主と象徴の人生を生きた。現在の天皇は象徴の役割を果たしてきた。

現在の天皇の生前退位の問題がクローズアップされているが、「天皇とは誰か」「象徴とは何か」という誰もが考えなくてはならないテーマが浮き上がってきたようだ。

 

そして、この本では脇役だが、私の関心の内にあるのは、本多静六博士だ。

本多静六は、自己啓発分野でも偉人である。私も大いに影響を受けている。

「いまだ未熟なる日本林学ではあるけれど、無理な所に立派な神宮を造り上げて進ぜましょう」

「何としてでも、我々の手で天然に負けぬ人工林を造り出さねばならんのだ。でなければ今後林学は不要の学問として政府に排除されかねんぞ。日本の林学がまた、世界に後(おく)れを取る」

本多静六もやはり、己の為すべきことを成し遂げた人であった。

 

「名言との対話」10月19日。魯迅

-「地上にもともと道はない。歩く人が多くなればそれが道になる。 」

--1881年生まれの魯迅は、本名は周樹人である。筆名の「魯」は、母の苗字だったのだ。1902年から1909年まで魯迅は日本で暮らす。何をしたらいいかわからないことを悩んだ末、船で外国に行こうと決心する。公費留学で、弘文館で新知識と日本文化を学ぶが、講道館牛込分場修行者にも周樹人という名前がのっている。仙台医学専門学校での1年次の成績表によると、倫理だけが80点台であとはギリギリの60点が多く、平均点は65,5点。142人中の68位と冴えない。医学にはあまり熱心になれない姿が浮かぶ。

--「藤野先生」という作品で知られる藤野厳九郎という人物がいる。仙台医専門の先生で魯迅が終生、その恩義を語った人だ。周樹人が日本語でとったノートが展示されていている。関節の授業のようで、骨の絵が描かれている。そこに藤野先生が赤字で直している。このシーンも「藤野先生」に出てきて、周樹人は感激する。中国の教科書に載っているいるので、中国人は知っている。日中友好のエピソードだ。

--道というものは最初からあったわけではない。最初の人が歩いて、その後を多くの人が踏み固めて、それがいつか小さな小道となって皆が歩いた。何事も最初に歩いた人が偉い。井戸を掘った人に感謝するという言葉が中国にあるが、初めに何かに挑戦し、切り拓いた人がいたために、後世の人は恩恵を受けている。人の拓いた道ではなく、自分の道を歩け。この言葉は勇気を与えてくれる。