世田谷美術館の「志村ふくみ--母衣への回帰」展

世田谷美術館で「志村ふくみ--母衣への回帰」展が開催中だ。
先日、平日に訪問したら、案にそうして中年以降の女性達ででいっぱいだった。志村人気はますます盛んだ。

草木から抽出した自然染料で糸を染め上げる草木染めの名匠・志村ふくみは、自然への「感謝と敬意」の心を持ちながら、92歳の今も創作に余念がない。
多くのファンを持つ志村は、人間国宝文化功労者京都賞受賞者として高く評価されている。
一方で、文筆においても「一色一生」を初めとする多数の細やかな著作も多数発表してしている。そして娘や孫と芸術学校「アルスシムラ」も開校し染織の文化をつなぐための後進の育成にも力を入れている。
こうした業績に対して2015年には文化勲章が贈られている。

前々から他の美術館で草木染めの着物を見て、その色合いに感心していたので、家内と一緒に見てきたが、草木染めと志村の世界に魅せられた。
「最近は一つ織り上げるとこれが最後のような気がしている」と志村は、広島カープの黒田投手と同じことを言っていた。
「私が織るのではない、私をとおして多くの無名の機織りの女性と共に織るのだという思い、、、、無事織あげられますようにと祈る日々である」とも言っている。

親友となった石牟礼道子は、「日本文化の成り立ちを根底から支えているのは藍である」との見解にも賛同している。そして「残るものは作品しかございません」として「沖の宮」という能の作品を、最後の作品を残した。

「色」と「織」との精妙な組み合わせの共演から成り立つ芸術作品である志村の作品はほれぼれするが、植物の与えてくれる色は、植物の生命そのものであると志村は述べている。
「織物の地色は単独ではなく、必ず、縦糸と緯糸が重なりあって出て来るもので、これを織色」」といい、縦糸は伝統、緯糸は今を生きているあかしとたとえ、この陰陽がかさなって織り色が生まれるのである。

「母衣曼荼羅」「普賢の華」「青藍」「唐茶」「天青」「和歌紫」「七夕」「秋霞」「初雪」「歴程」「花群青」「不二」、、そして「源氏物語」シーリーズを堪能した。

月齢を見ながら、複雑な工程で糸をつくりあげていく。その釜の中に命が宿っており、その命を育てていく。液体を絞ると緑色に発色する。命が宿っていると感じるときだ。

  • 民族に色があるとすればやはり日本民族は藍ではないだろうか。藍という植物が人間にあたえられたことは恩寵である。
  • 手によってすべての仕事は行われる。手の中に思考が宿るといってもいい。私の掌のなかで色は次第に、自己を確立し、主張し、一色で立ち上がろうとする。
  • かねがね、日本の植物染料より生まれる色はこの民族の根幹に深くかかわり、古事記から万葉集にはじまり日本の文学、物語、和歌と深い関係があるのではないかと漠然と思っていた。

京都賞を受賞した理由は「民衆の知恵の結晶である紬の着物の創作を通して、自然との共生という人間にとって根源的な価値観を思索し続ける芸術家」とされている。

すべてを見終わる寸前に、どうしたことか不意に涙が出て来て自分でも驚いた。自然との共生という志村ふくみの仕事に心を揺さぶられたのだろうか。ものごとにあまり感じない私もこの展覧会に感動したのだろう。
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今日は、ゴルフに関して、二つのニュースがあった。
世界ゴルフ選手権シリーズ「WGC-HSBCチャンピオンズ」(中国)で松山英樹(24)が7打差のぶっちぎりで優勝を果たした。松山はアメリカツアーのメジャー制覇も目前だ。
国内では、片山晋呉(43)が、マイナビABC選手権で勝利し、優勝回数を30回に伸ばした。

片山は35歳で25勝している。その時に、「前週、自宅の引き出しに眠っていた古びたノートを引っ張り出した。まだ1勝もしていなかった当時の自分は「35歳で25勝する」と書いていた。」とインタビューに答えていた。そうするとこの数字は計画通りだったということになる。そして、「僕の体は平均的な日本人。それで、どうすればゴルフがうまくなるかというテーマしか僕の思考回路にはない」とし、工夫を重ね、その後も進化を果たし、8年間で5回の優勝を勝ち取り、優勝回数を30回の大台に乗せた。
もちろん伸び盛りの松山英樹も素晴らしいが、20歳ほど年長の片山の考え方と、その実践には教えられる。
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「名言との対話」。10月30日。豊田佐吉

  • 「障子を開けてみよ。外は広いぞ」
    • 豊田佐吉(とよだ さきち、1867年3月19日(慶応3年2月14日) - 1930年(昭和5年)10月30日)は、日本の発明家、実業家。豊田式木鉄混製力織機(豊田式汽力織機)、無停止杼換式自動織機(G型自動織機)をはじめとして、生涯で発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件の発明をした。豊田紡織(現 トヨタ紡織)、豊田紡織廠、豊田自動織機製作所(現 豊田自動織機)を創業、トヨタグループの創始者である。
    • 佐吉は中国進出の抱負を次のように語っている。「それは日支親善の為めじゃぞ。、、日本はどうしても支那(中国)を、、自らの懐に入れなければ嘘じゃ。、、、親しみの裡に堅い握手が出来て、互に経済的に解け合い、助け合ってゆけるようにならねば駄目じゃ。、、、先ず官僚外交の前に国民外交が無ければならぬ。、、、何と言っても、何方から見ても支那は日本に取っては実に大事な国じゃ。、、、それには先ず実業家が奮発することじゃ。、、、其の相互の理解が一致して提携となり、親善となり、唇歯輔車の関係が此処に出来上るのじゃ。、、」。「支那においては先ず外観を整えて、彼の日本人は偉いなあと思わしめ、信じしめるだけの外形を整えねばならぬ。、、、第二の方寸は事業上成るべく多くの支那人を雇うことだ。そうして先ず此等の従業者に成るべく多く儲けしめることだ。、、、日本の実業家が斯様な心持ちで支那に出掛けるならば、事業は必ず成功し、所謂国民外交の端緒は此処より開け行くものと確信して居る。」。「支那四億の国民に日本の企業家の腕一つによりて、世界中一番割安な綿糸布を提供して彼等の生活需要を充たしてやると言う抱負は、余りに突飛な考えであろうか。、、、支那市場が日本紡績製品の本場となるに至れば、、、日本の製品は紡績業の本家本元たる倫敦までも進出が出来よう。、、遂に日本は綿糸布を以て全世界に供給し、全人類に対して一大奉仕を為すの覚悟を以て進まねばならぬ。」
    • 「狂と呼び、痴と笑うも、世間の勝手じゃ」
    • 「人のやったことは、まだ人のやれることの百分の一に過ぎない」
    • 1929年に世界一を誇ったイギリスのプラット会社が工場を見学し「世界一の織機」と称賛し、権利譲渡の交渉が行われ、10万ポンド(邦貨100万円)で特許権を譲渡した。佐吉はこの10万ポンドで「自動車を勉強するがよい」と長男の喜一郎に与えた。病床にあった佐吉は喜一郎に「これからのわしらの新しい仕事は自動車だ。立派にやりとげてくれ。」「わしは織機で国のためにつくした。お前は自動車をつくれ。自動車をつくって国のためにつくせ。と励ました。佐吉は1930年に64歳でこの世を去り、自動車事業は長男の喜一郎の志となった。
    • 現在隆盛を誇るトヨタ自動社の礎は、佐吉の特許権によって築かれた。この自動織機の発明者は、時代をよく睨んでいた。織機の次の時代は自動車の時代だとして、後継者・喜一郎に方向と資源を与えた。狭い室内に留まることなく、障子を開けて外を見よという言葉には、大いに刺激を受ける。