国重惇史「住友銀行秘史」(講談社)

国重惇史「住友銀行秘史」(講談社)を読了。

住友銀行秘史

話題の書である。

高収益で有名だった住友銀行の汚点となったバブル謳歌時期の裏で発生したイトマン事件の実相を、最も身近にいたものとして、1990年3月から1991年7月までの手帳日記で再現したノンフィクション。大企業の奥の院で志を果たそうとするビジネスマンの物語でもある。

著者は当時威力があった内部告発文書[「Letter」を大蔵省、新聞社、行内、有力OBなどにばらまいた張本人であった。業務渉外部部付部長として住友銀行内部との葛藤と、それにからんだ伊藤寿永光、許永中らが起こしたイトマン事件の中心にいた一人である。銀行マンとしての首をかけた戦争であった。

あれから四半世紀が経って関係者は物故したり、第一線から退いており、迷惑がかかることも少なくなったとして、関係者は、実名で登場しているから、少しでも関心のあった向きは、よく理解できる構造となっている。磯田一郎、巽外夫、西川善文、樋口広太郎、堀田庄三、土田正顕、坂篤郎、佐藤正忠、、、。

許永中イトマンに絵を売り、その金でイトマン株を買い占めている。自分の金で乗っ取られているようなものだった。そういう構造で住銀が支援していた中堅商社イトマンが揺さぶられていた。

以下、銀行内部に対する著者の感想から。

-誰も引き金を引きたくない。

-住銀の内部は権力闘争の混じった統制のとれない悪循環。

-徹底した減点主義ノメガバンク

-バブルでゆるみ、浮かれ、タガがはずれていた。

-高い地位にある人間は自分から降りることができない。

-社内の勢力図が変わろうとすると、皆変わり身と逃げ足だけは速い。

-権力は周囲から腐っていく。

-何も決められない。

-怒りと焦れ、呆れを通り越して悲しかった。

「権力の頂点にあった人物を引きずりおろすのは重いことだ。」「一日遅れたら、一ヶ月遅れたら、それだけどんどん損失が増えていく。」以下は、ようやく磯田会長の辞任、イトマンの河村社長を解任した後の著者の感慨。

-高揚感はまったくなかった。後味が悪かった。抜け殻のようになった。

-相変わらず人事ばかりを気にする空気が蔓延。

-人事の見立てほど虚しいものはない。

-皆、自分のことしか考えていない。いかに自分が安全地帯に逃げれるか。

-無力感。

著者はその後、本店営業第一部長、丸の内支店長、取締役を経て、住友キャピタル証券副社長、ネット証券社長、楽天副社長、副会長を経験。70歳になった今、新たな事業を始めている。

この本は、バブル期の裏面史を描いているが、また大企業の内幕と実態、その中で保身でうごめく人々の群れの姿を写している。この描写された姿は大小を問わず多くの企業も同じだ。私もそうだったが、読者は自分の組織と自分を重ね合わせながら、身につまされるであろう。

 

「名言との対話」11月27日。昇地三郎。

「オシャレをしなくなった日から老いが始まる」

曻地 三郎1906年(明治39年)8月16日 - 2013年11月27日、旧姓:山本三郎)は、日本の教育者教育学者。教育学・心理学・精神医学が専門。私財を投じて日本初の知的障害児通園施設しいのみ学園を設立、運営した。享年107。

 ただいま100歳~今からでも遅くはない~。10代 親の言うことを聞こう。20代 まず「やってみる」。良い配偶者を得る。30代 子育ての時代。親子で希望の星を求めよう。40代 最も花の咲く時期。勝負をせよ。50代 人災の最高の時。60代 飛躍の時。自分の学問・実績を広げよう。70代 70くらいで屈してはならない。自分を鍛えよう。80代 半分の40代のつもりで頑張ると気力が出てくる。90代 今からでも遅くはない。15歳の意欲でいよう。100歳 Go ahead! 前進、また前進。

曻地三郎の十大習慣健康法。①まず笑顔②冷水摩擦③棒体操④祈る⑤一口三十回噛む⑥ラジオ講座を聞く⑦新聞を読む⑧口八丁手八丁足八丁⑨日記を書く⑩背骨を伸ばして寝る

 十大教育原理。1.活動の原理 揺さぶる。刺激を与えて反応させる。2.興味の原理 あら、何かしら、という興味を引き出す。3.許容の原理 叱らない教育4.賞賛の原理 褒めて伸ばす。5.自信の原理 達成の喜びを経験させる。6.予見の原理 先を見る。7.変化の原理 マンネリズムかを避ける。8.集中の原理 ここぞという時にはやり遂げさせる。9.共在の原理 先生と子供がいつも同じ空間にいる。10.体感の原理 スキンシップ。

「降りかかってきた禍を『困った、困った』と逃げ回っていると、どこまでも追い掛けてくる。それを、試錬と捉えて『来るなら来い』と立ち向かっていけば、禍が逆に幸福の種になるのです」

しいのみ学園の昇地三郎は奇抜な格好をしていたが、それは意識したアンチエイジングだったのか。十大習慣健康法、十大教育原理など、この人の前向きの人生の言葉には励まされる人が多いだろう。

 

 

「名言との対話」10月27日。小佐野賢治

「事業をやるには三つの目が必要だ。虫の目。鳥の目。魚の目だ」

1917年~1986年(大正6年~昭和61年)国際興業創業者。山梨県東山梨郡山村(現・甲州市勝沼)で農家の長男として生まれる。生家は非常に貧しく、幼いころは自宅さえもなく村の寺の軒先を借りる生活であったといわれる。小学校へ入学すると家計を助ける為に、毎朝午前3時に起床して新聞配達を行っていた。昭和8年、小学校卒業後、上京して自動車部品販売店へ就職。昭和15年東京で自動車部品業を創業。昭和20年熱海ホテル、山中湖ホテル、強羅ホテルを次々に買収。昭和21年東都乗合自動車(現・国際興業バス)を五島慶太から譲り受ける。昭和36年山梨交通会長に就任。昭和41年富士屋ホテルの経営権を握る。昭和44年十和田観光電鉄買収。昭和48年シェラトン・パレス・ホテルを取得。昭和49年シェラトン・ワイキキ、ロイヤル・ハワイアン、シェラトン・マウイの3ホテル取得。昭和51年ロッキード事件により衆議院予算委員会で証人喚問。昭和60年帝国ホテル会長に就任。70歳で没。

「新しい事業をやるときは、それまでやってきたこととまったく関係のないことに手を出したら駄目だ。かならず失敗する。それまでの事業の延長線上にあるものにしか、手を出してはいかん」

「人間っていうのは、会社でも何でもそうなんだけど、繁栄している時に去っていくのは、その人生に悔いがないよ。しかし、落ちぶれた時に去っていくのは人間としてやっぱり一抹の寂しさがあるわけですよ。」

  小佐野は毎晩9時半には就寝し、平均8時間の睡眠時間は確保していたという。怪物といわれながら、自分で自分を律していた。裸一貫から立ち上がった小佐野賢治の事業を成功させるた3つの目。虫の目とは足もとを子細に観察する人意味もあるが複眼で見ることであり、鳥の目とは鳥瞰することであった。そして魚の目は時代の流れを見極める目を意味していた。この3つの目は仕事をする者には必須の目である。