根津美術館開館75周年特別展「丸山応挙--写生を超えて」

根津美術館開館75周年特別展「丸山応挙--写生を超えて」。

近世画家の巨匠・丸山応挙(1733-1795年)は新たな「写生」の概念を確立し、圧倒的な人気を博した。同時代の江戸中期の随筆家・上田秋成は「絵は応挙が世に出て、写生といふ事のはたり出て、京中の絵が皆一手になった事じゃ」(上田秋成「胆大小心禄」)と紹介している。

 

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印象に残った作品は以下。

源氏物語四季図屏風

雲龍図屏風:圧倒的な存在感と視覚的なボリューム。肌触りのようなものさえ感じさせる龍と雲。

藤花狗子図

西湖十景図

写生雑記帖

写生図巻

四条河原名涼図(眼鏡絵)

七難七福図巻(上・中・下):上巻(天災巻)、中巻(人災編)、下巻(福巻)。上巻は、地震、洪水、暴風海難、雷、狼、大蛇。中巻には盗賊、追剝、情死、水責、切腹、一家自刃、火焙、獄門斬首、磔、鋸挽、牛裂。下巻には大邸宅における貴族の祝宴と飲食、子どもの舟遊び、祝宴の調理、年貢納め。当時の災と福が表現されている。1768年。応挙36歳の作品。「尊貴、長寿、僕従、財宝、車馬、米銭、宮殿広く荘厳あるを福といへり。

 

「よくない画本を見て描くとき、画は上手にできるものである。その理由は、悪い所を見直して、筆力が弱いところを強く書くから良いのである。よく出来た画本では習って似せようとするので、精心が抜けて筆力が不十分になるのである。」(円満院門主祐常「萬誌」の応挙の言葉)

 

「名言との対話」12月13日。安岡正篤

「自分はつきつめた所、何になるかといえば、自分は自分になる”完全な自己”になるということだ」

安岡 正篤1898年明治31年)2月13日 - 1983年昭和58年)12月13日)は陽明学者・思想家。

安岡正篤は自身を教育者として位置づけていたが、生涯で二度大役を果たしている。最初は、鈴木貫太郎内閣時代、太平洋戦争を終える決意をした昭和天皇の「終戦詔書」に最後の赤字の筆を入れたときである。この詔書は1945年(昭和20年)8月15日にラジオ放送によって流れた天皇の言葉となって全国民が聞いた。

二度目は昭和天皇崩御元号が「平成」となった時だ。平成とは、書経の「地平らかにして天なる 内平らかにして外なる」からとった言葉である。これは後に総理となった竹下登が講演の中で「安岡さんの案」として紹介している。書経には「万世のために太平を開かんと欲す」という言葉があり、その上に「地平天成」という言葉がある。明らかに安岡正篤の案であろう。安岡は吉田茂以下、戦後の歴代首相の指南番としても知られている。

「どんな一事・一物からでも、それを究尽すれば必ず真理に近づいてゆき、竟には宇宙・天・神という問題にぶつかるものだ。」

「宗教と道徳を区別するのあ西洋近代学の通念であって、東洋ではこの二者を”道”として一なるものと考えてきた」

「愚直で、少々頭も悪く、小才も利かぬ、そんな人間の方が、根が真面目なだけに、
修養努力して大人物になることが多い 。」

人物学、東洋学を修めた安岡正篤の言葉には重みがある。自分は何になるのか、それは職業ではない。どのような職業を選ぼうとも、長い人生の時間をかけて、人はゆっくりと自分自身になっていくのだ。この言葉はまことに腑に落ちる。そして何かテーマを持って進んでいけば、いずれは真理に近づき、最後は宇宙、天、神、という偉大な存在に気がついていく。東洋の教えにはまことに深いものがある。

 

「副学長日・志塾の風161213」

午後、来年度採用の小西先生と目黒駅で待ち合わせ。

学園本部で田村理事長に紹介。

帰りに小西先生と懇談。

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多摩大インターネット放送局T-Studioで収録した番組がリリース。

久恒啓一の「名言との対話」10回。

今回は、江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎を中心にライバルの安藤広重も紹介。

www.tama.ac.jp