司馬遼太郎「ビジネスエリートの新論語」--出世欲と社会欲

司馬遼太郎「ビジネスエリートの新論語」(文春新書)を読了。

ビジネスエリートの新論語 (文春新書)

昭和30年、産経新聞記者時代に本名の福田定一名で刊行された本が20年ぶりに新書として刊行された。「名言随筆サラリーマン ユーモア新論語」が元名である。32歳のときの作品だ。

司馬はサラリーマンの原型をサムライに求めた。それは儒教がもとになっているが、ユーモアを交えた書きぶりで、楽しく読める。しかし、内容から言っても、サラリーマンをビジネスエリートと変えたのには疑問あり。

サラリーマンの元祖は大江広元であるという。頼朝がつくった新政府の公文所別当という事務総長の立場に呼ばれる人物だ。行政能力があり、仕事熱心であった。「益なくして厚き禄をうくるは窃むなり」が大江広元の人生訓であり、保身訓でもあった。

「二十で希望に燃えている者が二十五になると疑いを持つ。三十でそれが迷いになり、三十五であきらめる。四十になると保身に専念し、四十五になると欲が出る」(松岡洋子)。これはある重役のサラリーマン観察だそうだが、よくみていると思う。三十から迷い続ける人と三十であきらめて仕事に精を出そうとする人か、これが運命を分けるのではないだろうか。

若き司馬は「サラリーマン人生の成功不成功は、退勤後の人生をどう構成するかにかかってくる」と言っている。個性を育むのは、アフターファイブというわけだ。

「先輩からは知恵を、後輩からは感覚を汲むがよい」(西洋の諺)。老化を防ぐには常に今の世界に生きることが必要である。特にIT時代にはその教えが生きる。感覚もそうだが、知識も教えてもらうのがいい。サッカレーが言うように「人生の真の喜びは、目下の者と共に住むことである」。

「老年の悲劇は、彼が老いたからでなく、彼がまだ若いところにある」(ワイルド)も本質を言い当てている。若い、そして若いと思っている、そこに問題が出てくる。社会死が来てからあわててもどうにもならない。停年後の30年を含めたプランを立てよと司馬は言う。在職中に稼業以外の技能をえいえいと養うべきであり、人生に緊張感を持てとのたまう。司馬は自分に引きつけてこういう言葉を発していたのだろう。

福田定一は、この本を書いた5年後の37歳で「梟の城」で直木賞を取り、司馬遼太郎として世に出て行く。さきほど述べたある重役の観察には「会社を辞める年齢は大体三十から三十五の間だ」という真理も入っていた。司馬遼太郎の場合も、保身と欲の年代にさしかかるまでに転身したということになる。

この本を読みながら自分を振り返ってみると、「二十五で迷い、三十であきらめ、四十で欲、四十五で再出発」、ということになる。私が転身を意識したのは44歳であり、実際に実行したのは47歳だった。保身と欲の出てくる時期ではあったが、出世欲よりも社会欲を選んだということにしておこう。

 

「名言との対話」12月28日。横溝正史

「謎の骨格に論理の肉付けをして浪漫の衣を着せましょう」

横溝 正史(よこみぞ せいし、1902年明治35年)5月24日 - 1981年昭和56年)12月28日)は、日本小説家推理作家である。金田一耕助を探偵役とする77作品を数える一連の探偵小説で有名。23歳で江戸川乱歩に出会う。これが横溝の生涯を決める。江戸川乱歩は人生の師だった。

執筆で行き詰まった際には編み物で気分転換したこの作家は、推理小説を書くにもかかわらず、閉所恐怖症でもあった。電車に乗る際は必ず酒の入った水筒を首から提げていたという。

書いた作品は片っ端から文庫に収録された、「ええ加減にしてくださいよ」と主張したが、角川春樹に押し切られていく。1980年からは、角川書店は長編推理小説新人賞として横溝正史ミステリー対象が設けられた。

東京都世田谷区成城にあった横溝の書斎(1955年(昭和30年)頃建築)は、山梨県山梨市に移築され、2007年(平成19年)3月25日より「横溝正史館」として公開されている。ほったらかし温泉の近にあり、訪ねたことがある。

冒頭の言葉は、山梨の横溝正史館で見つけた。推理小説とは何かを、この言葉ほど見事に言い表した言葉はないように思う。謎と論理と浪漫、そして骨と肉と衣。これを組み合わせた比喩が素晴らしい。